婦好墓
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1976年に発掘された。墓は長方形の竪穴墓で、南北5.6m、東西4m、深さは8m。墓室上部で墓坑とほぼ同じ大きさの版築による建築跡が見つかっているが、おそらく祭祀用の建物であろう。遺体は木製の棺・槨におさめられていた。そのうち木槨は、長さ5m、幅3.6m、高さ1.3mであったが、地下水につかり、ほとんど壊れてしまっていた。漆塗りがほどこされた木棺と被葬者の遺体は、ともに腐敗していたが、棺の上部に麻布と薄絹が付着していた[1]。
この墓では、あわせて16人の殉葬者が確認されている。被葬者の腰の下に設けられた犠牲坑である腰坑に1人、東壁の龕に2人、西壁の龕に1人、さらに槨上部の塡土の中に4人、槨内に8人である。このほか犠牲の犬が、腰坑に1匹、槨上部の塡土中に5匹埋められていた[2]。
副葬品は、青銅器・土器・骨器・玉器・象牙製品・貝製品など、あわせて1928点にのぼり、ほかにタカラガイ6800点、ホラガイ2点が出土している。そのうち青銅器は槨内に、玉器と貝製品は主に棺内に置かれていた。塡土中からも、土器の爵・玉簋・石磬・象牙の杯・玉臼・石牛・骨製の簪・鏃などが出土した[2]。
青銅器の総数は460点以上あり、そのうち礼器が210点と最も多く、ついで武器・楽器・道具・雑器などがあった。銘文が鋳込まれた青銅器も少なくなく、とりわけ「婦好」の銘のあるものが大量にあり、109点にも達した[2]。礼器についていえば、方鼎・円鼎・偶方彝[注釈 1]・三連甗・簋・尊・方罍・壺・瓿・缶・觥・斝・盉・爵・觚・盤などがあり、当時存在したすべての器種がそろっていた[3]。なかでも偶方彝は、高さ60cm、幅88.2cm、重さ71kgで、器底に「婦好」の銘があった。また三連甗は、長方形の器身に足が6本つく甗の台の上に大型の甑が3つ乗った形で、台・甑の内壁および耳の下に「婦好」の銘があった。そのほか、ともに二器一対で出土した婦好鶚尊と司母辛四足觥が注目される[4]。
青銅の武器は130点出土しているが、そのうち鉞は大型・小型各2点、あわせて4点あった。大型の鉞は、長さ39.5cm、幅37.3cm、重さ9.5kg。やはり「婦好」の2文字が鋳込まれていた。さらに戈が90点あまり、青銅製の錛(手斧)、鑿・刀・スコップなどが44点、青銅鈴が18点出土した。また円形で中央に鈕のつく銅鏡が4点出土し、直径はそれぞれ12.5cm、11.8cm、11.7cm、7.1cm[4]。
玉器は750点出土し、そのうち300点が軟玉製であった。大部分が新疆産で、一部に遼寧省岫巌産のものも含まれていた[4]。琮・圭・璧・環・璜・戈・矛・戚・鉞・斧・スコップ・臼・杵・盤・櫛など、いずれも浮き彫りと丸彫りを駆使して作られていた[5]。とりわけ丸彫りの玉人と人頭像が注目される。ひざまずいた姿勢の玉人は、編んだ髪を頭頂でたばね、冠をかぶり、前あわせで口のすぼまった長袖の着衣に、幅広の腰帯を巻き、靴をはいていた。尊大なようすで、貴族のようにみえる。もう1点のひざまずいた玉人は、髪を短く編み、衣服はつけているが裸足のままで、女奴隷のようにみえる[6]。
鳥獣をかたどった玉も少なくなく、獣類では虎・象・馬・牛・羊・熊・猿・兎など、鳥類では鶴・鷹・鶚・鸚鵡・鳩・カワウ・ツバメ・ガチョウなどが出土している[7]。さらに蝉やカマキリのような昆虫のほか、龍・鳳凰・怪獣・怪鳥・カエル・魚・スッポン・亀などが確認されている。これらのうち、鶴・鷹・鳩・カワウ・カマキリの形態は、殷墟では初めての発見である[8]。
ほかに象牙の杯が3点出土している。そのうちの1点は、上端が注ぎ口となり、虎をかたどった細長い取手がつく形状で、高さ42cmであった。杯の本体は、象牙の根本の中空を利用したものであり、全体に鳥文・饕餮文・夔龍文などが彫りこまれ、ところどころ雷文があしらわれていた[8]。
この墓の被葬者である婦好は、武丁期の卜辞にしばしば登場し、夷方・土方・羌方・巴方などを征討した女性である。卜辞と青銅器の銘文によれば、婦好は武丁の妻であったと考えられる。墓の年代は殷墟2期、すなわち紀元前13世紀から紀元前12世紀にあたっている[9]。
脚注
参考文献
- 黄石林、朱乃誠『中国文化史ライブラリー 中国考古の重要発見』高木智見訳、日本エディタースクール出版部、2003年。ISBN 4-88888-330-0。