宇都宮テクノポリス
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開発構想
宇都宮都市圏域の工業は、戦前から集積した軍需産業を出発点に、高度経済成長期以降は安い労働力・地価を志向とする企業立地の場として宇都宮工業団地(平出工業団地)や宇都宮清原工業団地をはじめとする大規模工業団地を整備し、日本国内最大級の内陸工業地域として、北関東工業地域の中核としても発展してきた。しかし、高度経済成長期終了後の安定成長期にあたる昭和50年代後半ごろにおいてからは、首都圏の外延化による地価の上昇や東北自動車道(1972年〈昭和47年〉開通)や東北新幹線(1982年〈昭和57年〉開通)などの高速交通や情報通信網の整備により、宇都宮地域より首都圏から離れた地域への工業立地が盛んになってきたことにより、宇都宮地域は以前のような安い労働力・地価を志向とする企業立地の場としての立場が薄くなってきていた[1]。
こうした状況において、宇都宮都市圏はものを作るだけの生産の場から、頭脳(研究開発・協業体制)を備えた総合的な産業基地への「脱皮」を目指すこととし、そのために宇都宮都市圏に集積されてきたメカトロニクス(戦時中・戦前から立地したミシン〈シンガー日鋼〉や航空機部品〈富士重工業〉などの機械加工・組立に特化した事業所群とその下請け産業に集積された超精密加工技術)とエレクトロニクス(おもに高度経済成長期以降に宇都宮に進出した松下電器産業、日本信号、本田技研工業などの電機・電子・自動車機器と部品を製造する企業が保持する光学や自動車を始めとするエレクトロニクス技術、機械系工業技術)の2つの産業技術基盤を主軸とした自立経済型の高度技術産業集約都市への変化と、機械加工組立産業に加え原材料供給のための新素材産業も集積した多角的産業コンプレックスの形成を図ることが必要とされた[1]。
このような経緯を踏まえ、宇都宮市・芳賀町・真岡市・高根沢町によって組織された「宇都宮テクノポリス建設推進協議会」(国による計画承認後は「宇都宮テクノポリス推進機構」へ改組)が中心となり[2]、通商産業省(現在の経済産業省)が構想した「テクノポリス」とも関連し宇都宮市を母都市として宇都宮の東方に位置する鬼怒川左岸地域に高度技術集積都市の整備を目指す「宇都宮テクノポリス構想」が立ち上げられ、1983年(昭和58年)3月に基本構想を策定、1984年(昭和59年)5月21日に通商産業省によって構想が認定された[3]。テクノポリスは通商産業省が構想した高度技術集積都市整備のモデル事業で、1981年(昭和56年)度に策定した基本構想及びそれに基づいて1983年(昭和58年)7月15日に施行された高度技術工業集積地域開発促進法(昭和58年5月16日 法律第35号、通称「テクノポリス法」、1998年〈平成10年〉の新事業創出促進法により廃止)によって制度化され、最終的に全国で宇都宮を含め26地域が認定された。
宇都宮テクノポリス構想は「明日の頭脳都市・先端技術が拓く田園都市」を開発テーマに据え、農・工・商のバランスのとれた自立経済圏形成の拠点づくりを目指し、以下の基本理念のもと21世紀を目指した宇都宮圏域づくりのビジョンとして策定された[1][4]。
- 知識集約型産業の集積
- 宇都宮都市圏域では、従前から量産組み立て産業の進出が盛んであったが、地元産業との技術・取引連関は必ずしも十分ではなかったため、高度な技術や知識を有し、地元企業と連帯して互いに発展するような産業の集積を目指した。
- 質の高い雇用環境の確保
- 高学歴化社会に対応し、先端技術産業、研究開発機関を中心に質の高い就業機会を拡充し、多様な雇用の場を確保することを目指した。
- 高い生活欲求の実現
- 所得の向上、物質的な豊かさだけでなく、文化・社会・生活など多くの面でさらに高い欲求に応えられる地域社会を構築する。
- 均衡のとれた産業の発展
農業においても首都圏の生鮮食料品供給基地として一層発展させ、商業においても買回り品や情報サービス産業の充実などより高度化を図り、各産業の均衡ある発展と安定した地域経済の確立を図る。
内容と年号表記は1983年(昭和58年)策定の『宇都宮テクノポリス開発構想』に基づく。
- 目標年次
1988年(昭和63年)までを「概成期」、1995年(昭和70年/平成7年)までを「拡充期」、2000年(昭和75年/平成12年)までを「自律的展開・成熟期」と位置付けた。
- 圏域の設定
- 母都市
- 宇都宮市
- テクノポリス圏
- 宇都宮市・真岡市・芳賀町・高根沢町の全域
- テクノポリス開発区
- 鬼怒川左岸開発基本計画の対象となる鬼怒川左岸地域の宝積寺台地の一部
- テクノポリス事業区
- 開発区の中で事業が実施される地域
- 整備概要
鬼怒川左岸地域の宇都宮市、真岡市、芳賀郡芳賀町、塩谷郡高根沢町にまたがる約4,800ha、南北約18km、東西約6kmの地域の開発区に、産業機能、学術・研究機能、住機能、テクノポリスセンター機能、農業の各機能の設置を図るものとした。
開発区は構想時においては北部、中心部、南部の3ゾーンに区分けされ、北部・南部に住、学術・研究、農業の3機能を、中央部にはそれら3機能に加え産業、テクノポリスセンター機能の5機能の整備を図るものとしていた[5]。
テクノポリスセンターは産・学・住の機能をつなぐ拠点として、また、宇都宮市の副都心としての地域形成、首都圏における高度研究開発拠点、国際技術交流の場として位置づけ、会議場・展示場等の公共公益施設、商業業務施設等都市的施設の整備を図るものとした[6]。
開発区内の交通に関しては自動車交通を基本とし、南北方向に関しては高根沢町から開発区を縦貫し真岡市方向へ向かう道路(後の国道408号)を、東西方向には鬼怒川を渡る幹線道路を5本整備することとした。『宇都宮テクノポリス開発構想』で描かれた道路ネットワークの概念図には宇都宮の外環状線(現・宇都宮環状道路)から開発区を結ぶ5本の幹線道路が描かれ、北側の2本は現在の板戸大橋(県道64号バイパス)、柳田大橋(県道64号鬼怒通り)、南側の2本は新鬼怒橋(国道123号)、桑島大橋(国道121号)と対応しているが、中央部に描かれていた1本は2026年現在でも実現していない[7]。南北方向の軌道交通としては既存の日本国有鉄道(国鉄、当時)東北新幹線・東北本線、東武鉄道宇都宮線が幹線と位置付けられ、東西方向に関しては当時事業化には至らなかったが、放射状道路の代替性強化を図るための強力な交通軸として新交通システムの導入が検討事項として挙げられ、開発区と国鉄宇都宮駅を結び、さらに市中心部を西進するものとされた[8]。
- テクノポリス建設による効果
昭和55(1980)年度と比較し、昭和65(1990)年度において生産額の増加額9,000~12,100億円、就業者増加35,800~42,800人、昭和75(2000)年度において生産額の増加額18,800億円~21,700億円、就業者増加49,800~56,900人の直接的効果を見込んだほか、テクノポリス圏において1980年比で1990年度に約10万人、2000年度に約18万人の人口増加を期するものとされていた。また、母都市再開発による都市機能の高度化や住民マインドの変化(科学技術と自然の望ましい結合への希求、農業の高度技術産業としての認識、国際的交流の慣れと地域性、国民性の自覚、創造活動への意識の高まり、多様な社会参加の意識定着、都市型文化の展開、圏域の地域イメージの形成)が図られると期待した[9]。
- 産業コンプレックスの形成
清原・芳賀工業団地の活用や理工系大学や民間中央研究所、研究開発に意欲と能力を有する中堅企業の導入や当時は事業化前で「北関東横断道路」と呼称されていた将来的な北関東自動車道整備(2000年 - 2011年にかけ開通)等への期待による基盤整備や研究者等の定住環境の確保、東京や筑波研究学園都市への近さを活かした先端技術情報のアクセスの確保を通じ、各種産業コンプレックスの形成を目指した[10]。
1983年当時、宇都宮圏域に位置する大手企業においては工場内への研究機能の設置や幅広い周辺情報、生活環境面での改善、中小企業においては人材・資金面での制約による研究への悪影響や共同利用できる超精密研究機器類を求めるニーズがあった一方、大都市圏に位置していた民間企業研究所では拡張余力の不足や交通振動による精密測定の困難化といった問題を抱えており、それらのニーズや需要に応える機能の形成を目指した[11]。
短・中期的にはメカトロニクス、エレクトロニクス、中・長期的にはそれに加え獨協医科大学、自治医科大学との連携によるファインケミカル(医薬品、機能性樹脂)や育種産業(新品種開発、バイオテクノロジー)、さらにこれら産業の素材として当時期待されていた新素材(ファインセラミックス、アモルファス等)産業の集積を目指すとされた。工業生産機能、農業生産機能、学術・研究機能、人材の育成・活用、産学官・産業間の連携システム確立、コンプレックス形成のための中核的組織の設立・運営を図るプログラムの展開を図り、工業団地や各種インフラストラクチャー、大学、研究所等の整備や誘致、金融支援、普及・広報活動、農家や企業、研究機関の交流や企業化への助成、交流促進環境の形成、共同研究開発の促進、人材交流事業の実施を行うものとした[12]。
高度技術に立脚した工業開発及び地域中核企業の育成を進めるため、1983年(昭和58年)12月に公益財団法人栃木県産業技術振興協会(現・栃木県産業振興センター)を設立し、同財団内に情報センターを設立したほか、工業試験研究機関の機能強化を図るとした[6]。
- 高等教育機関の誘致
1983年当時、宇都宮市内に4年制大学は宇都宮大学以外存在しておらず、収容能力は全国最低レベルであった。また県内高卒者の10%しか地元に残留しない状況であり、地元大学卒業者の地元就職率は33.2%と当時の全国平均(47.4%)を大きく下回る状況であったことから、良質な雇用の場の不足が指摘された。
理工系大学を始めとする高等教育機関をテクノポリス周辺に誘致する「宇都宮学園都市構想」の推進を図った[1]。
欠乏していた高等教育機関機能については1989年(平成元年)に理工系学部を慨する帝京大学宇都宮キャンパスとテクノポリス区域内に位置する作新学院大学が開学し、既存の宇都宮大学も学部機能の強化が図られた。
宇都宮テクノポリスの現在
工業団地への産業機能立地は順調に進んだが、テクノポリスの開発は『宇都宮テクノポリス開発構想』の目標時期から大幅に遅れて進行した。
- ゆいの杜

1997年(平成9年)度より開発区中央部ゾーンにあたる宇都宮市刈沼町・野高谷町付近の約177haを対象に「宇都宮テクノポリスセンター土地区画整理事業」が住宅・都市整備公団(現・都市再生機構)の施行により開始され、2012年(平成24年)度まで続いた[13]。
同区域内では2001年(平成13年)1月にテクノポリスの中心施設にあたる栃木県産業技術センター(とちぎ産業創造プラザ)が着工し、2002年(平成14年)12月に完成、2003年(平成15年)4月に開所した[14]。
テクノポリスセンター地区は昭和時代の当初構想においては先述の通り、産業技術を中心とした産・学・住一体型都市を目指していたが、区画整理事業施工にあたっては「職住近接のゆとりある住宅街づくり」に路線変更を図り、戸建てを中心とする住宅街やロードサイド型商業施設の並ぶニュータウンとして整備された[13][15]。
2007年(平成19年)に都市再生機構は宇都宮テクノポリスセンター地区の愛称を「ゆめみらい」「ゆいの杜」「ゆめみの杜」の3案から選ぶ投票を実施し、結果「ゆいの杜」に決定した。「ゆいの杜」は住む人が互いに協力し、助け合いながら発展する街の姿を「結い」とし、その結びつきが自然(杜)豊かな地区にあることから着想された愛称である[15]。2013年(平成25年)3月23日に当該地域について住居表示が施行され、「ゆいの杜」が地名となった。
- とちぎ産業創造プラザ(2014年5月)
- 新交通システムの整備

構想段階から新交通システムの導入が検討事項に挙げられていたが、当時は本格的な事業化に至らなかった。
その後、工業団地の開発に伴い鬼怒川を渡る道路橋を中心に交通渋滞が深刻化し、ピーク時では宇都宮市中心部までの約10kmの間に1時間 - 2時間かかることが常態化した。これらの課題を解決するために1993年(平成5年)に宇都宮駅東口 - 清原工業団地間を結ぶ新交通システムを整備することが提起され、2001年(平成13年)にテクノポリスセンター地区から宇都宮市中心部を結ぶ次世代型路面電車(LRT)の整備を図る方針を示した。
上記の次世代型路面電車はライトレールの路線として整備され、2023年(令和5年)8月26日に宇都宮ライトレール宇都宮芳賀ライトレール線(ライトライン/芳賀・宇都宮LRT)として開業を迎え、宇都宮駅東口からテクノポリス開発区(清原工業団地 - ゆいの杜 - 芳賀・高根沢工業団地)を縦貫する路線となっている。
区域内の施設
工業団地
- 中央部(宇都宮市・芳賀町)
- 宇都宮清原工業団地
- 芳賀工業団地
- 芳賀・高根沢工業団地
- 北部(高根沢町)
- 情報の森とちぎ
研究・開発拠点
主な施設・企業のみ掲載
- 公設
- 栃木県産業技術センター(とちぎ産業創造プラザ内)
- 栃木県農業総合研究センター高根沢農場
- 宇都宮大学農学部付属農場
- 民設
住宅地
- 宇都宮テクノポリスセンター地区(ゆいの杜)
- 清原台住宅団地