宇都宮泰綱
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 鎌倉時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 建仁2年(1202年) |
| 死没 | 文応元年11月1日(1260年11月24日) |
| 別名 | 下野前司、弥三郎、宇都宮検校 |
| 官位 | 正五位下、下野守、修理亮 |
| 幕府 | 鎌倉幕府 評定衆、美濃国守護 |
| 主君 | 藤原頼経、頼嗣、宗尊親王 |
| 氏族 | 藤原氏、下野宇都宮氏 |
| 父母 | 父:宇都宮頼綱、母:北条時政の娘 |
| 兄弟 | 時綱、秋元泰業、横田頼業、泰綱、多功宗朝、藤原為家室、三条実房室、源通成室 |
| 妻 | 北条朝時の娘 |
| 子 | 景綱、経綱、北条経時室、小山時長室、盛綱 |
宇都宮 泰綱(うつのみや やすつな)は、鎌倉時代前・中期の人物。藤原姓宇都宮氏第6代当主。官位は正五位下で下野守、修理亮を歴任。鎌倉御家人でもあり評定衆、美濃国守護に任じられた。宇都宮歌壇の歌人としても著名。宇都宮頼綱の子で宇都宮景綱の父。母は北条時政の娘。
建仁2年(1202年)に生まれる。元服時に母方の従兄にあたる北条泰時より偏諱を賜って[1]泰綱と名乗る。
嘉禎4年(1238年)、将軍・九条頼経に仕えて上洛し下野守に叙任された。泰綱が『吾妻鏡』に登場する寛喜2年(1230年)頃の官職の記述が従五位下相当の修理亮となっているから、下野守に任ぜられる前の寛喜2年(1230年)頃には既に従五位下の官位を余されており、その官位のまま下野守に任ぜられたものと推定される。その後、仁治2年(1241年)に下野守を満了した折には従五位上に昇進したとされる。寛元元年(1243年)、幕府評定衆の一人に任じられた後は、没するまでその職に在り続け幕政で重きを成した。建長元年(1249年)頃には幕府内職位として美濃の守護職も与えられている。一方、官位の方も寛元4年(1246年)に正五位下に昇進したようであるが、その後については不詳である。文応元年(1260年)11月1日、父・頼綱の後を追うように59歳にて京都で死去した。
歌人としても優れており、藤原定家は修理(泰綱)の和歌は「骨を得ている」と評価(『明月記』嘉禎元年5月1日条)し、宇都宮歌壇を盛り立てた。『玉葉和歌集』や『続拾遺和歌集』には泰綱の作品が数多く修められている。
『吾妻鏡』では、下野守を満了した後の泰綱を「下野前司」と記している。