安審信
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安金全の兄の安金祐の子として生まれた。安審琦の従兄にあたる。若くして騎射を習った。後唐の天成元年(926年)、安金全が振武軍節度使となると、審信はその下で牙将に任じられた。まもなく兄の安審通が横海軍節度使となると、審信は牙内都虞候として任用された。同州・陝州・許州の馬歩軍都指揮使を歴任した。清泰3年(936年)、石敬瑭が太原府で起兵すると、末帝李従珂の命で張敬達が兵を率いて太原府を攻撃したが、審信は率先して部下の兵を率いて太原府に逃げ込んだ。石敬瑭は審信と旧知であったことから、審信を得て喜んだ。審信の妻と二人の子は洛陽におり、いずれも末帝に殺害され、ひとり老母のみが助かった。契丹が晋安寨を降すと、審信は石敬瑭により汾州刺史・検校太保に任じられ、馬歩軍副部署をつとめた[1]。
後晋の天福元年(同年)、高祖石敬瑭が洛陽に入ると、審信は河中節度使・検校太尉・同平章事に転じた。審信は気の変わりやすい性格で、部下の多くはかれを敬遠した[1]。天福5年(940年)、審信は忠武軍節度使となった[3]。天福7年(942年)、泰寧軍節度使に任じられた[4]。着任するところで収奪につとめたので、民衆はその統治に苦しんだ[5]。開運元年(944年)、少帝石重貴が契丹に対する北伐を企図すると、審信は推薦を受けて馬歩軍右廂都排陣使となった[6][5]。開運2年(945年)、華州節度使に任じられた[7]。後漢の天福12年(947年)、同州節度使に転じた[5]。乾祐3年(950年)、入朝して左衛上将軍となった[8]。
広順元年(951年)、後周が建国されると、審信は右金吾衛上将軍に転じた。広順3年(953年)4月、太祖郭威が乾元殿に入閣すると、審信は官職に赴かなかった。そのため御史の弾劾を受けたが、郭威に赦免された。ときに審信は長らく病を患い、意識がはっきりしなかった。ほどなく病のため引退を願い出て、太子太師として致仕した。この年の秋に死去した。享年は60。侍中の位を追贈された。諡は成穆といった[5]。