宗源寺 (長野県根羽村)
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| 宗源寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 長野県下伊那郡根羽村大畑2157-1 |
| 位置 | 北緯35度15分19秒 東経137度34分59秒 / 北緯35.25528度 東経137.58306度座標: 北緯35度15分19秒 東経137度34分59秒 / 北緯35.25528度 東経137.58306度 |
| 山号 | 普門山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 釈迦如来 |
| 創建年 | 応永2年(1395年) |
| 開山 | 礼翁俊成 |
| 中興年 | 宝暦5年(1755年) |
| 中興 | 喝吽不傳 |
| 法人番号 | 2100005009768 |
仏像
至徳2年(1385年)、当時、能登国にあった曹洞宗大本山の總持寺の大徹宗令が、後深草天皇からの勅命によって関東に蔓延していた疫病を終息させるために、その病根と見做されていた那須野の殺生石を訪れて祈祷して厄難を払い、その帰途に「禰ばね[1]」に立寄り、この地が三河国・信濃国・美濃国3ヶ国の境であり、衆生救済教化の適地であることから、一宇を建てて總持寺へ帰り、このことを告げた。
応永2年(1395年)、 (門かまえに言)堂良閨を遣わし、根羽の小川寺毛に寺院を建立して宗源寺と名付けた。
慶長6年(1601年)には、伊那代官の朝日受永より朱印地として、7石8斗を下賜されている。
近世における宗源寺は、信濃国に於ける曹洞宗の僧録所であった松代の長国寺の触下ではなく、遠江国の可睡斎の触下であった[2]。
このことは元亀2年(1571年)4月に武田信玄によって根羽村が信濃国に編入されるまでは、三河国加茂郡に属していたからである。
宝暦4年(1754年)4月8日、寺毛にあった宗源寺は火災により焼失したため、檀徒の協力によって現在地の大畑に再建することとなった。
宝暦5年(1755年)12月、庫裡を再建。宝暦10年(1760年)本堂を再建。宝暦12年(1762年)禅堂が完成した。
本尊は、釈迦如来像であるが、その他の仏像については、1896年(明治29年)12月の「明細帳訂正願」には、行基作の子安観世音菩薩立像(本尊の脇立) - 高さ1尺8寸。が記されている。
1907年(明治40年)の「仏像名年代調」には、次のように記されている。
右之外 彫刻ノ佛像アルモ、木像にして二尺未満二付 記載セズ
- 大権修利菩薩木像 - 高さ2尺5寸。宝暦9年(1759年)8月彫刻
- 達磨大師木像 - 高さ2尺1寸。宝暦9年(1759年)8月彫刻
- 承陽大師(道元)木像 - 高さ2尺。文化元年(1804年)8月彫刻
- 大徹宗令大和尚木像 - 高さ2尺。文化元年(1804年)8月彫刻
- 開山 礼翁俊成 大和尚木像 - 高さ2尺。文化元年(1804年)8月彫刻
- 中興 喝吽不傳 大和尚木像 - 高さ2尺。文化元年(1804年)8月彫刻
1926年(大正15年)の「仏像名年代調」には、仏像は全て塩川法橋の作で、薬師如来像、浄土宗の大僧正であった祐天の像、観音画、行基作の地蔵菩薩像と記されており、多少の違いがみられる。
その他、密教関係の観音・薬師・地蔵が存置されているが、理由は不明である。
境内
面積は550坪(約18a)で、内陣後方に開山等の木像を祀る「祖先庵」が付属する約50坪の本堂と、寄棟造平入の約30坪の座禅堂があり、その右側が衆寮[3]で廊下で本堂と繋がっている。庫裡は建築当時の形式を残している約65坪の建物である。
境内に祀られている徳壽稲荷は、天保15年(1844年)3月の建立である。
根羽村有形文化財
- 宗源寺
普學山 一心寺
宗源寺の末寺で、長野県下伊那郡根羽村字初入5266-1にある。
大永元年(1521年)12月、郷士の原十郎左衛門が開基し、宗源寺3世の諦印宗詮を勧請して開山した。
仏像
1897年(明治30年)6月、長野県知事の権藤貫一宛の「寺院明細帳」には、次のように記されている。
- 本尊 木像聖観世音菩薩 - 高さ2尺未満。彫刻年代不明
- 脇立 木像大権修利菩薩 - 高さ2尺未満。彫刻年代不明
- 脇立 木像達磨大師 - 高さ2尺未満。彫刻年代不明
- 脇立 木像馬鳴菩薩 - 高さ2尺未満。彫刻年代不明
1926年(大正15年)の「仏像名年代調」には、宝物として仏像4体と涅槃像1軸、大般若経600巻とある。
境内
面積は、1897年(明治30年)時点の記録で209坪(約6.9a)、入母屋造りの本堂が33坪、庫裡が44坪、鎮守堂が2坪余となっている。
太平洋戦争時に金属供出した梵鐘は、文政3年(1820年)総檀徒によって寄付されたものであった。