宝蔵王
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政変を起こして権力を握った淵蓋蘇文によって王に擁立されたので、王としての実権を持つことはできなかった。在位中には天災地変が頻繁に起こり、淵蓋蘇文の主張によって道教振興策を実施した。
唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な関係を維持した(麗済同盟)。唐の高句麗出兵でははじめのうちは善戦し、太宗が親征した第1次侵攻は撃退した。しかし高宗の代になって唐が戦略を持久戦に転換すると国力の消耗が著しくなり、その結果として離反や内紛が相次いだ。660年に百済が唐に滅ぼされると、新羅と唐が後背からも攻め寄せる形となった。
666年の淵蓋蘇文の死後にその三子の後継争いが生じ、淵男生一派は唐に投降しその先鋒となった。淵蓋蘇文の弟の淵浄土は新羅に投降した。こうして668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降して長安に連行されたが、政治の責任は王になかったとして処刑されることはなく、唐から司平大常伯・員外同正に任命された。