室松寺 (岐阜県白川町)
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創建時期は不詳である。
真言宗当山派で神仏混淆の修験道寺院であったため檀家を持たず、住職の他に弟子が2人が居住していた。
中世以来、室松寺は大山白山神社の別当寺となって神事を執行した。
天文6年(1537年)9月18日、沙門圓海が署名し花押を記した大山白山権現の由緒書によると、
末尾には、以上の様な当山の縁起は上代からあったけれども、虫が喰って分からなくなった箇所もあると記している。
宝永6年(1709年)3月、洞雲寺のある田代山寺村[3]と、和泉村と小原村[4]が山境のことで争論があり、遂に寺社奉行の裁許によって、境界の南は白川の流れの中央、東は飛騨街道の中央、西は名倉村の境谷と決定し、出村全域は田代山寺村の領域となったため、室松寺は一夜にして白川の流れを越えて、現在の大宮神社[5]の西のあたりに引越した。
宝永7年(1710年)3月、修験道伺いの本山の一つである京都醍醐三寶院の末寺となった。
美濃國 賀茂郡 白川谷 小原村 白川山 室松寺儀、今般 三寶院 御門跡 被召加、御直末寺之間、自今 以後 励事教之 行學可専、御當流之 紹隆旨 被 仰出處、仍執達如件。 寶永七年寅 三月十六日
寛政5年(1793年)から寛政12年(1800年)まで8年間かかった造営が一番大規模なもので、その費用は莫大であった。
山麓の村々の住民は、全て氏子であったため、幕府領・尾張藩領・苗木藩領の区別なく、一致協力して造営に奉仕した。
その中でも最も重要な現場主任は、和泉村庄屋の高木嘉助、会計主任は油井村庄屋の杉山多三郎が担当した。
氏子が住む村々の支配者からの寄進は、以下の通りであった。
いよいよ遷宮及び開帳の運びとなり、祭典執行の願書を上司へ出したが、それによると新築したのは、大峯三社・本堂・大黒堂・神垣門・籠所・鳥居の6ヶ所で、祭典は3月26日、27日の両日が遷宮式、4月2日から2週間に渡り御開帳があった。
寛政10年(1798年)3月に飛騨郡代の飯塚伊兵衛に提出した宗門改の一札の控書が残っている。
一札 室松寺住持一 眞言宗 覺隆 年五十六歳
一 同宗 弟子 泰恩 年三十七歳
一 同宗 弟子 秀山 年二十六歳
一 同宗 室松寺末寺 無住 奥眞寺
〆 三人
右は 當午歳 宗門書上候通 少しも相違御座なく候。若し御法度の宗門の由、訴人 之あり候はば、何方までも拙僧罷り出て 急度申訳仕るべく候。後日のため 仍て件のごとし。
三寶院 御門跡 御末寺
濃州加茂郡小原村 室松寺(印)
寛政十年 午の三月
覺隆(花押)
飯塚伊兵衛殿 御役所
また室松寺は旅人のために通行手形の発行も行っていた。
慶応4年(1868年)3月28日の神仏分離令に該当したため廃寺となり、当時20歳であった榮悉は室松美濃と名乗り、大山白山神社の神職となった。
榮悉が醍醐三寶院の門主に届けた文書である。
以下は神職となった榮悉が室松美濃と名乗り、神祇官の白川伯王家の役所に向け、神祇道拝揖式を教えて戴きたいと頼んだ願書で、小原村の庄屋が奥書をしている。
恐れ乍ら伺い奉り候。是迄三寶院御殿 御末寺にて 神祇奉仕罷り在り候處、今般 御一新に付 複餝仕り 神職に相成り候に付ては、當御殿 神祇道拝 揖之式、御相傳願い奉り候。尤も此の儀 他より故障の筋、聊も御座候間、何卒御聞済の程、仰いで願い奉り候。以上。 濃州大山神社神主 室松美濃榮悉
白川様御役所本文之通り 相違御座無く候間、奥印仕り候。何卒御聞済之程 願い上げ奉り候。以上
右村 庄屋 甚藏