寺戸満隆

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生誕 不詳
墓所 本圀寺山口県山口市道場門前)[1][2]
 
寺戸 満隆
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄10年9月12日1567年10月14日)?[1]
墓所 本圀寺山口県山口市道場門前)[1][2]
官位 対馬守[1]
主君 吉見正頼[1]内藤隆春[1]
氏族 寺戸氏
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寺戸 満隆(てらど みつたか)は、戦国時代武将吉見氏内藤氏の家臣。「寺戸対馬守」の名で知られる。

前半生

詳しい出自は不明。石見国吉見氏に仕えるが牢人となり、周防国山口に来て内藤隆春に仕えた[1]

大内輝弘の乱

永禄12年(1569年10月10日豊後国戦国大名大友宗麟の支援を受けた大内輝弘周防国吉敷郡秋穂浦に上陸し、10月12日には防戦のために平野口に出陣した山口町奉行の井上就貞を討ち取って山口に乱入した(大内輝弘の乱[3]

山口の高嶺城では城主である市川経好九州に出陣中のため、留守居役の内藤就藤山県元重粟屋元種国清寺の住持である竺雲恵心らが100人余の兵と共に守備していたが、市川経好の正室・市川局が鎧を身にまとって城兵を鼓舞し[3]、「寺戸対馬守」が山口在郷の士である有馬世澄津守輔直乗福寺代僧らと共に急遽籠城に加わって固く城を守った[4]

大内輝弘は山口市街に火を放って高嶺城への示威を試み、10月13日には吉見氏家臣の上領頼規頼武父子や吉賀頼貞らの吉見軍が高嶺城の援軍として駆け付けたが、宮野口における大内輝弘麾下の城井小次郎との合戦で上領頼武が戦死する敗戦を喫し、高嶺城は孤立することとなる[4]

大内輝弘による山口占領の急報が長府の毛利元就のもとに届くと、元就は立花城で大友軍と戦っていた吉川元春小早川隆景に撤退を命じると共に、桂元忠渡辺長を高嶺城救援の先遣隊として派遣[4]10月17日には高嶺城麓の後河原において大内輝弘の軍と交戦し、山県元重、渡辺元蔵田就貞入江就昌らが活躍して勝利を収めている[5]

10月18日に長府へ帰還した吉川元春は山県春直江田智次らを先遣隊として急ぎ山口へ派遣[6]。吉川軍の先遣隊は周防国吉敷郡下宇野令村の縄手で大内軍と交戦し、高嶺城から出陣した毛利軍と呼応して大内軍を打ち破った[6]

吉川元春は10月20日に長府を出陣して、同日夜に周防国と長門国の国境に近い長門国厚狭郡山中に着陣した[6]。吉川軍到来の報が大内輝弘のもとにもたらされると、敗戦を悟った大内輝弘は兵を率いて山口から秋穂浦へ撤退したため、高嶺城に入城していた蔵田就貞が糸米峠で大内軍を追撃した[6]

10月21日、寺戸対馬守が高嶺城に籠城した軍忠を賞して、内藤隆春が勝屋采女を使者として軍忠状を与えている[7][8][9]

なお、秋穂浦に逃れた大内輝弘は船が無かったことで豊後国に逃れることが出来ず、10月25日に周防国佐波郡椿峠富海の間にある茶臼山にて自害し、大内輝弘の乱は終結した[6]

その後の動向は不明。墓所は山口県山口市道場門前の本圀寺[1][2]

没年について

昭和46年(1971年)に刊行された『山口市史 各説篇』によると、典拠史料の提示はないが、寺戸対馬守満隆は永禄10年(1567年9月12日に死去したと記されており[1]、これに従うと、永禄12年(1569年)の大内輝弘の乱の際に毛利軍に加わった「寺戸対馬守」は満隆の子にあたると考えられる。

子孫

脚注

参考文献

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