内藤隆春
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| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 享禄元年(1528年) |
| 死没 | 慶長5年7月24日(1600年9月1日)[1] |
| 改名 | 内藤隆通[1]→内藤隆春[1]→内藤周竹(法名)[1] |
| 別名 | 通称:亦二郎(又次郎)[1] |
| 戒名 | 澄月院殿照山浄光[1] |
| 墓所 | 昌福寺(山口県山口市徳地町) |
| 官位 | 従五位下[1]、左衛門大夫[1] |
| 幕府 | 室町幕府 長門国守護役 |
| 主君 | 大内義隆→義長→毛利隆元→輝元 |
| 氏族 | 自称藤原氏秀郷流・道長流、内藤氏 |
| 父母 | 父:内藤興盛[2]、母:山内直通の娘[1] |
| 兄弟 | 隆時[2]、正朝[2]、隆貞[2]、問田殿(大内義隆側室)[1]、妙見(宍戸元秀室)[1]、弥二郎[1]、尾崎局(毛利隆元正室)[1]、隆春、女(和智元郷室)[1]、女(出羽元祐室)[1]、山内元興[1]、元種[1] |
| 妻 |
正室:吉見隆頼の娘[1] 継室:原田氏の娘[1] 継室:阿座上盛豊の娘[1] |
| 子 |
向月院(益田藤兼継室)[3]、河原殿(吉見広頼継室)[1]、綾木大方(内藤元盛室→山内元如室)[1]、女(湯二郎左衛門尉室)[1]、奥林の方(勝間田就盛室)[1]、三田局(三田吉右衛門尉室)[1]、元家[1]、元忠[1]、親春[要出典] 養子:元盛(宍戸元秀の次男)[1] |
| 特記 事項 | 甥に内藤隆世、問田亀鶴丸、毛利輝元らがいる。 |
内藤 隆春(ないとう たかはる[4])は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大内氏、次いで毛利氏の家臣。周防長門内藤氏の当主。毛利氏のもとで長門国守護役を務める。
出生
享禄元年(1528年)、大内氏の重臣・内藤興盛の五男(第八子)として誕生。大内義隆の偏諱を受けて、「隆通」、「隆春」と名乗った[注釈 1]。
隆春には4人の兄がいたが、天文10年(1541年)3月19日に次兄の正朝[1]、同年12月19日に長兄の隆時[2]、天文16年(1547年)12月24日に三兄の隆貞[1]が死去しており、四兄の弥二郎も没年は不明ながら早くに死去している[1]ことから、興盛の五男として生まれた隆春が若くして最年長の男子となっている。ただし長兄・隆時の嫡男として内藤隆世がおり、興盛の後継者は隆世と目されていた[1][5]。
毛利氏への接近
天文18年(1549年)、同母姉の尾崎局が大内義隆の養女として、毛利元就から家督を相続して毛利氏の当主となっていた毛利隆元の正室となったことで隆春は毛利隆元の義弟となり、以降毛利氏との関係を深めていく[6][7][5]。
天文20年(1551年)9月に発生した大内氏重臣・陶隆房(後の陶晴賢)による主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)においては、隆春の父である興盛や杉重矩といった大内氏の重臣達も隆房(晴賢)に協力していた[8]。
天文21年(1552年)、隆春の父・興盛と、興盛の嫡男・内藤隆時の子で興盛の後継者と目されていた内藤隆世が何らかの理由で対立[5]。豊前国や筑前国の内藤氏家臣達が隆世に味方し、内藤氏庶流で周防国を本貫としたとされる勝間田氏が興盛に味方することで、内藤氏は「家中錯乱」と呼ばれるほどの事態に陥ったが、天文22年(1553年)12月に興盛が死去し、天文23年(1554年)2月までに隆世が内藤氏の家督を相続した[9]。
隆春は隆世と対立していたためか、陶晴賢らが新たに迎えた当主である大内義長のために積極的に尽力することはなく、長門国厚東郡吉部にある居城の荒滝山城に在城した[7]。
毛利氏に仕える
天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いで毛利元就・隆元父子が陶晴賢に勝利し、続けて周防国へ進攻して防長経略を開始。この頃、毛利氏では内藤氏の当主を内藤隆世ではなく毛利氏と縁戚関係にある隆春にしようとしており、弘治2年(1556年)までに隆春は毛利氏に降っている[10]。毛利氏が隆春を重視した理由として、隆春が隆元の義弟に当たる縁戚関係に加えて、長門国の長府などにも拠点を持ち、人脈も有していた隆春の存在が周防国と長門国の制圧と支配において有利に働くと見られていたと考えられている[11]。
弘治3年(1557年)4月3日に大内義長の自害により大内氏が滅亡すると、義長と共に自害した内藤隆世の後を継ぎ、隆春が新たな内藤氏当主となった[7]。防長経略を終えた毛利元就は毛利軍の主力を率いて4月23日に周防国防府を出発し吉田郡山城に凱旋したが、同年6月に陶氏の中間であった佐藤宗左衛門尉父子が周防国山口で蜂起して市川経好や温科種重らに鎮圧されて以降、大内氏の遺臣が度々蜂起した[7]。
同年9月26日、元就と隆元から周防国と長門国の法度について申し付けられ、隆春に対して些かの疑心も抱かないことを約束する書状を与えられた[7][12]。
同年11月、大内義隆と隆春の姉の間の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じた大内氏遺臣の草場越中守、小原加賀守、河越伊豆守らが、周防国と長門国の地下人一揆と共に蜂起して山口へ乱入すると、山口に滞在していた隆春と雑賀隆利がその鎮圧にあたり、11月11日に山口の西方にある障子岳に籠もる旧大内勢・一揆勢を隆春の軍が打ち破った[7][13][14]。この戦いで隆春の家臣である勝間田盛道が負傷しつつも問田氏の遺臣2人を討ち取っている[15]。また、同日に杉松千代丸(後の杉重良)の軍が妙見崎山で敵兵の首級35を挙げ、久芳賢直も配下の百姓・与三右衛門からの情報で周防国吉敷郡糸米の大内氏残党による蜂起の企てを察知して未然に防ぎ[16][17]、三戸元貞や有馬世澄らも武功を挙げた[15]。
同年12月20日、毛利隆元から長門国守護役に就任することを認められ[11][18]、同日に毛利氏の奉行人である桂元忠、粟屋元親、児玉就忠、赤川元保が連署する御教書でも同様に長門国守護役に任じる旨を伝えられている[19]。守護役の役割は大内氏時代の守護代とは異なり、防長経略の戦後処理の時期を除いて、従来からの人的繋がりを活かした一時的なパイプ役であったが、長門国の国衙がある長府のように古い伝統がある地域の支配を円滑に進めるために有効な働きをすることが期待されていたと考えられている[11]。
さらに翌日の12月21日には、大内氏遺臣の蜂起を鎮圧した功を元就と隆元に賞され、一所の所領を与えられた[20]。
また、永禄元年(1558年)に山口において隆春の進退についての雑説が流れていたため、同年閏6月20日に元就・隆元父子は隆春と隆元の仲に悪心など無く、隆春に対して些かの疎意も無い旨の起請文を作成し、土肥了佐と阿座上盛親に送っている[21]。
以後の隆春は毛利氏当主である毛利隆元の義弟で、後継者である毛利輝元の母方の叔父ということもあり、長門国の政務を任され、荒滝山城・櫛崎城など大規模な山城を構え、重用されたという。
代替わり
永禄6年(1563年)8月4日に義兄の隆元が死去し、元亀2年(1571年)6月14日に元就も死去した。
さらに、毛利氏との縁を結んでいる姉の尾崎局も元亀3年(1572年)9月30日に死去したことで、大内氏の旧臣ながら長門国に隠然たる勢力を有していた内藤氏の影響力が低下し、隆春に対する讒言が行われた[注釈 2][6]。そこで隆春は輝元への釈明のために同年10月12日に輝元の近臣である兼重元宣と児玉元良に対して、毛利氏への忠誠を誓う血判起請文を提出した[22][23]。この時の血判起請文で隆春は「謹んで言上いたします。我が内藤家は防長経略で内藤隆世が自害した際に断絶となるところ、毛利家によって隆春が家督を相続したことは紛れもなく大方様(尾崎局)の御厚恩であるため、内外共にその尊意を奉じていました。しかし、この度ご逝去され、寂寥を感じることは言語に絶し、歎息は日に日に増すばかりです。隆春は吉田郡山城から遠く離れた長門国に在国しているため、隆春についての巧言讒訴は容易です。そこで、もし私に関する讒訴をお聞きになって疑念を抱かれたのであれば、すぐに私にお尋ねいただければ忝く思います。私は毛利家からの重恩を忘却しておらず、改めて申し上げるまでもないですが、毛利家に対して無二の覚悟を持っておりますので、上意(輝元)からも御憐愍をかけていただければ幸いです。また、妙寿様(尾崎局)に対する訴人がいれば、実否軽重を糺していただければ本望です。隆春が別心を抱いた場合は、日本国中の大小の神祇、安芸国の厳島大明神、相合八幡大菩薩、特に長門国の一宮(住吉神社)と二宮(忌宮神社)、それぞれの神罰・冥罰を蒙るでしょう」と述べている[22][23]。
天正6年(1578年)3月、周防国山口の高嶺城主・市川経好の長男である市川元教が大友宗麟の調略に乗り、謀反を企てた[24]。市川元教は父・経好も計画に誘い、当時、高嶺城の二の丸に在城していた隆春を攻撃する準備をしていたが、市川経好は元教の誘いに乗ったと見せかけ、隙を見て元教を討ち果たした[24]。なお、この時高嶺城に在城していた雑賀隆知・隆利父子、原憲盛、藤井元直、内藤元輔、吉田平三、有吉実久、伊賀崎源次郎らも隆春と市川経好を助けて元教に抵抗し、輝元からその忠功を賞賛されている[24]。
隠居
隆春には天正9年(1581年)に長男の元家が生まれるまで長らく男子がいなかった[1]ため、姉・妙見と宍戸元秀の次男で、隆春にとって甥にあたる元盛(甥にあたる)を三女の綾木大方と婚姻させて婿養子に迎えて天正10年(1582年)頃に家督を譲り、隆春は隠居したと推測される[11]。また、隠居後には「周竹」と号している。
隠居した隆春は長門国から周防国へ所領替えとなり[11]、天正年間末の毛利家の分限帳によると、隆春の所領は周防国の佐波郡で2631石6合となっている[25]。
文禄の役
天正19年(1591年)12月16日、翌年4月に始まる文禄の役における「渡唐役」を輝元から免除され、輝元が率いる外征軍の通行のために佐波川に橋を架けることを命じられると共に、輝元が朝鮮半島に渡海している間の周防国と長門国を任せられており、晩年においても隆春が輝元から重要視されていたことが窺える[26][27][28]。
天正20年(1592年)1月22日、肥前国名護屋に在陣する長男・元家に書状を送り、「朝鮮渡海についていよいよ手堅く秀吉から命じられたが、毛利軍の人員は3万とされているものの、何度徴発のために骨を折ってみても不足している。そのため、殿様(輝元)は人員不足のまま名護屋から渡海することに決め、秀吉に対してその旨を断ったという。景様(小早川隆景)も最近名護屋に出陣したとのことなので、今一応自分の立場を申し上げていただきたい。とにかく元家の渡海にあたってはそのように心得られ、部下への軍勢催促にあれこれと心遣いをすることが専一である」と伝えている[29][30]。
晩年
最晩年には輝元の指示により上洛し、大坂で大内氏以来の公家とのつながりを生かして、豊臣秀吉死後の激動する中央の情報収集を行う。その報告は毛利氏の文書として伝わっている。
慶長3年(1598年)8月1日、豊臣秀吉は輝元に対し、輝元の嫡男・松寿丸(後の毛利秀就)と宇喜多秀家の娘との縁談を命じ、存命中に是非松寿丸に対面したいと要望した[31]。輝元は二宮就辰を使者として広島に派遣し、8月18日に松寿丸生母の二の丸殿や広島衆と共に海路で上洛することとなった[32]。しかし、松寿丸らの出発日と同じく8月18日に秀吉が死去し、上洛途上の備後国沼隈郡鞆において秀吉の訃報が伝わったため松寿丸一行は引き返し、9月1日に広島城に帰城した[33]。同日に隆春ら広島に在国していた諸将が広島城に登城して松寿丸の無事の帰城に対して賀辞を述べると、松寿丸は諸将の名を呼んで召し寄せ、盃を与えると共に肴を箸に挟んで下賜した[34]。隆春は翌9月2日の書状において松寿丸について「次第次第に殊の外賢くなられ、初めての旅は門出良く直ぐに下向された事、千秋万歳これに過ぎない」と記し、松寿丸の前途がますます有望であることを喜んだ[35]。また、徳川家康が秀吉の遺命に背いたことについて「秀吉が存命中に固く命じたことに早くも相違している」と記し、慨嘆している[36]。