内田袈裟彦
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生まれた頃から自宅の目の前にゴルフ場がある環境で育ち、キャディのアルバイトをしていた[1]。12歳からゴルフを始めていたが、すぐにプロにはならず、製薬会社に勤務。袈裟彦は会社勤めの傍ら、棟のクラブを無許可で使用して隠れて練習をしていた[1]。そのため、軽井沢ゴルフ倶楽部の従業員コンペのトーナメント表に袈裟彦の名前を発見した棟は、あまりに良いスコアで「どうしてこんなに上手なのか」と驚いた[1]。
その後、袈裟彦は会社を辞め、プロゴルファーを目指すことを宣言。プロテスト史上初のホールインワンを出し、3度目の挑戦となった24歳で見事ツアープロとなった[1]。
1969年の日本オープンでは杉本英世・内田繁に次ぐと同時に石井朝夫・柳田勝司・細石憲二・島田幸作を抑えての3位に入り[2] [3]、1971年にアジアサーキット・マニラオープンで逆転優勝[4]。
1974年の東北クラシックでは最終日に66をマークし、尾崎将司・安田春雄に次ぐ3位に入った[5]。
1974年の東京チャリティクラシックでは2日目に67、3日目には68をマークし、尾崎将・安田と並んでの5位タイに着けた[6]。
1975年の広島オープンでは初日に68をマークし、島田幸作・中村通・安田・何明忠(
中華民国)と並んでの5位タイでスタートした[7]。
1976年にはシンガポールオープンで3日目にコースレコードを塗り替える7アンダー65をマークして首位に立ち[8] [9]、最終日には4打差3位から追い上げたベン・アルダ(
フィリピン)[8] [9]、グラハム・マーシュ(
オーストラリア)を抑えて[10]逃げ切り、通算11アンダーで優勝し、賞金6400ドル、日本円で192万円を獲得[8] [9]。
1977年の香港オープンでは初日を船渡川育宏・謝敏男&陳健振(中華民国)ら6選手と共にイーブンパー70の首位タイ[11]でスタートし、2日目には75を叩いて大きく後退[12]。
1978年のジーン・サラゼン ジュンクラシックでは3日目に全英オープンから帰国した青木功と共に69をマークして5位タイ[13]に着け、最終日には大混戦になった優勝争いで菊地勝司・長谷川勝治と三つ巴[14]のサドンデス・プレーオフにもつれ込み[15]、プレーオフは、まず2ホール目で長谷川がボギーを叩いて脱落[15]。18番ミドルホールで菊地と共にボギーのあと再び戻った16番ミドルホールで、菊地がボギーを叩いたのに対し、バーディーを決めて[15]決着。国内初制覇を飾り[16] [17] [18]、18年目にしてツアー初制覇となった[19]。
1978年の産報クラシックでは初日にボギーなしの7バーディーと完璧なプレーを見せ、7アンダー65でまとめて首位に立つ[20]。2日目には4オーバー、通算3アンダー、29位に後退している[21]。
1980年の新潟県オープンでは初日を石井秀夫・田原紘・天野勝・金井清一・中嶋常幸を抑えると同時に船渡川と並んでの首位タイで終え[22]、最終日には石井・金井に次ぐと同時に上原宏一・船渡川・栗原孝・田原を抑えての3位タイに入った[23]。
試合で360ヤードのパー4をワンオンするなど飛ばし屋として人気を集め[24]、1987年からはシニア入り。定評のあるロングドライブに加えて、2番アイアンをパターに改造するなどの器用さで通算7勝をマーク。就寝中に夢に出てきたパターを形にした「ケサゴンパター」[24]で、1988年にはPGAシニアツアー初代賞金王となるなど活躍。
レギュラーでも、1988年の茨城オープンでは磯崎功・藤池昇・米山剛と並んでの6位タイに入った[25]。
棟89歳、袈裟彦68歳となった2006年6月には親子で関東プロゴールドシニアに出場。結果は息子の袈裟彦が優勝し、2度目の癌手術の後の棟は最下位であったが、忘れられないトーナメントとなった[16]。結局、一緒にラウンドしたのはこの1度だけであった[1]。2009年12月30日、心筋梗塞のため旅行先のタイ・チェンマイの病院で死去。72歳没。
次男の政美いわく、晩年は調子が悪いということもなく、タイに行く前には、今度プロテストを受験する政美の娘とラウンドしていた[24]。娘が合格すれば四代のプロゴルファーが誕生するということで、棟も楽しみにしていた[24]。棟にとって人生最大の哀しい出来事[16]となったが、その後の2016年には日本プロスポーツ大賞スポーツ功労賞文部科学大臣顕彰を授与される[26]。2019年7月23日に北佐久郡の自宅で老衰のため逝去[1]。