乾正信
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来歴
幼少期
甲斐武田氏の家臣・板垣信憲の嫡男として甲斐国で生まれる。父・信憲は板垣信方の嫡男で武田家の両職(筆頭家老)を継いだが、素行に問題があり、弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに参陣の後頃、武田信玄から不行跡を理由に城代を解任されたうえ、甲府長禅寺へ謹慎に処せられた。あるいは改易に処し、板垣の名跡を板垣信方の娘婿・於曾左京亮に継がせ板垣信安と名乗らせて、以後、信玄はそちらを板垣家の嫡流として扱い、信憲は「板垣」の名を名乗ることも召し上げて追放したとも、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたともいわれる[1][2]。
父が死去したとき、正信はまだ幼少であったため、従者の北原羽左衛門・都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。『遠碧軒記』によれば、正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社の斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となっている[3]。
青年期
正信は天正10年(1582年)3月の織田信長による武田征伐での武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。
山内家に仕官以降
この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる[4]。石高は136石で、知行地は、遠江榛原郡勝間田麻生村であった[5](孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。
慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。
逸話
正信は血気盛んな侍で「家中のもめごとを治める事」という慶長9年(1604年)頃の話の中で喧嘩をした侍の例として取り上げられている。以下『南路志』巻52によると、「ある日の夕方、乾加兵衛正信という侍が馬具もつけていない裸馬に乗って、江ノ口川へ入り、それより比島[6]あたりへ遠馭(とおがけ)に行ったとき、山田久兵衛の従者が一宮村の宿場より帰って来るのに出くわした。山田の従者は、橋の西側の堤の上で正信とすれ違ったが、狭い道のため、堤の下によけて正信を通したところ、(脇に生えていた)竹が(正信の)着物の片方引っかかったため、正信は手綱を手放してしまった。驚いた馬は駆け出し、二、三間走ったところで、正信は落馬した。しかしすぐ立ち上がり、その従者を一討ちして正信は帰って行った。この事を聞いた山田久兵衛は、すぐさま正信宅へ討ち入って、『たかが出会いがしらのいざこざで、その後従者を一討ちにするとはどういうことか』と久兵衛は怒り、「この上は果し合いも持さず」と言い残して、山内一豊へ陳情したところ、「双方の言い分にはもっともなところがあるが、些細な喧嘩で日ごろから信認している侍(原文「御調法の侍」)を無くすのは残念である。この上は、久兵衛には一豊の顔に免じて許してやってくれ。それから正信は、やはり対処の仕方を誤っておったので、しばらくは寺に入って謹慎するように」と言われ、20日間ほど吸江寺で謹慎したので、許されて以前の職務に戻った」と書かれている。正信が知行1000石を賜うという破格の扱いがあり、一豊にとって「御調法の侍」であったと記されている。
系譜
家族
家臣
- 北原羽左衛門
- 都築久大夫

