寺部城の戦い
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1558年に寺部城主の鈴木重辰が今川義元より離反し、織田信長へ鞍替えした。これを受けた義元は松平元康に寺部城攻めを命じた[1]。元康らは同年2月5日に上野城主酒井忠尚の加勢を受け、寺部城を攻撃した[2]。松平元康は火攻めを用いて寺部城を攻略、鈴木重辰は討ち死にした[3]。さらに寺部城攻撃の後、元康は周辺の広瀬、挙母、梅坪、伊保など織田方の諸城も攻め、石ヶ瀬において水野信元と戦い、これを破った(石ヶ瀬川の戦い)[1]。戦いの後、義元は元康へ恩賞として松平家旧領のうち山中300貫文を還付し、腰刀を贈った[1]。
その後、寺部鈴木氏は再び今川氏に服従し、時期は不詳であるが寺部城の城主に復帰している[2]。
逸話
元康は初陣での指揮に際して「敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断つべし」(敵はこの城一つに限るわけではない、あちこちの支城から後詰をされると、大変な事態となる、まずは枝葉を切り取ってから、根本を断つべきである)といって寺部城下を焼き討ちし、家臣の酒井正親や石川清兼らは「吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらん」(我々長年戦場で戦っているとはいえ、これほどまでの深謀遠慮はできるはずもなく、若大将は初陣でこのようなことに気づいたのであるから、ゆくゆくはどれほどすばらしい名将になるのだろうか)と、元康の知略に涙を流しながら感服したという(『徳川実紀』「東照宮御実紀巻第二」)[4][5]。