寺部城の戦い

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寺部城の戦い
戦争:鈴木重辰の離反
年月日永禄元年(1558年2月5日
場所:寺部城
座標: 北緯35度05分45秒 東経137度10分16秒 / 北緯35.09583度 東経137.17111度 / 35.09583; 137.17111
結果:松平元康の勝利
交戦勢力
松平軍(今川氏 鈴木氏
指導者・指揮官
松平元康 鈴木重辰  
徳川家康の戦い
寺部城の戦いの位置(東海地方内)
寺部城の戦い
東海地方における位置

寺部城の戦い(てらべじょうのたたかい)は、永禄元年(1558年2月5日三河国加茂郡(現在の愛知県豊田市)の寺部城で起こった戦い。寺部城攻めとも。三河支配の強化をはかる今川義元と、それに反発する三河国衆が衝突して発生した三河忩劇の一環で、この戦いは松平元康(後の徳川家康)の初陣としても知られる。

1558年に寺部城主の鈴木重辰が今川義元より離反し、織田信長へ鞍替えした。これを受けた義元は松平元康に寺部城攻めを命じた[1]。元康らは同年2月5日に上野城主酒井忠尚の加勢を受け、寺部城を攻撃した[2]。松平元康は火攻めを用いて寺部城を攻略、鈴木重辰は討ち死にした[3]。さらに寺部城攻撃の後、元康は周辺の広瀬、挙母、梅坪、伊保など織田方の諸城も攻め、石ヶ瀬において水野信元と戦い、これを破った(石ヶ瀬川の戦い[1]。戦いの後、義元は元康へ恩賞として松平家旧領のうち山中300貫文を還付し、腰刀を贈った[1]

その後、寺部鈴木氏は再び今川氏に服従し、時期は不詳であるが寺部城の城主に復帰している[2]

逸話

元康は初陣での指揮に際して「敵この一城にかぎるべからず。所々の敵城よりもし後詰せばゆゝしき大事なるべし。先枝葉を伐取て後本根を断つべし」(敵はこの城一つに限るわけではない、あちこちの支城から後詰をされると、大変な事態となる、まずは枝葉を切り取ってから、根本を断つべきである)といって寺部城下を焼き討ちし、家臣の酒井正親石川清兼らは「吾々戦場に年をふるといへども。これほどまでの遠慮はなきものを。若大将の初陣よりかゝる御心付せたまふ事。行々いかなる名将にかならせたまふらん」(我々長年戦場で戦っているとはいえ、これほどまでの深謀遠慮はできるはずもなく、若大将は初陣でこのようなことに気づいたのであるから、ゆくゆくはどれほどすばらしい名将になるのだろうか)と、元康の知略に涙を流しながら感服したという(『徳川実紀』「東照宮御実紀巻第二」)[4][5]

参加武将

松平軍
鈴木氏

脚注

参考文献

関連項目

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