小梁川遺跡
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遺跡の発見と登録
1970年(昭和45年)にダム計画が明らかにされ、1971年(昭和46年)にはダム建設のための予備調査が始まった。この地域の考古学的な調査としては、『宮城県史』編纂[1]に関連して行われた佐藤庄吉の分布調査[2][3]があるものの、ダム建設予定地内の遺跡は未発見となっていた。1976年(昭和51年)3月に七ヶ宿町公民館所蔵小梁川遺跡資料が『白石市史 別巻 考古資料篇』に紹介されたのが最初である。
1975年(昭和50年)12月には七ヶ宿ダム建設に伴う埋蔵文化財等の調査依頼があり、七ヶ宿町教育委員会・宮城県教育委員会によって1976年(昭和51年)5月16日から18日には水没計画地域全体の分布調査が実施され、同年10月刊行の『宮城県遺跡地名表』(宮城県文化財調査報告書第46集)に正式に登載された(小梁川遺跡No.04032)。
調査の概要
主な調査成果
縄文時代
小梁川遺跡の集落としての最盛期は中期前葉の大木7b式である。この時期の集落は東と西のふたつの支群に分かれる居住域とその間には墓域が営まれている。17基の土器埋設遺構(埋甕)は横位埋設15基・正位埋設2基からなり、このうち4基には石器が副葬されている。墓域のさらに中心部分には、浅鉢・鉢を遺体に被せたと見られる墓壙が確認され、求心的な構造を持つ集落と考えられる[5]。集落の北側には害獣除けとみられる逆茂木を伴うTピット(落とし穴)列が新旧2群確認されている[6]。中期後葉大木9式から後期初頭の集落が大梁川遺跡から発見されており、その後継集落と見られる。
遺物包含層および遺構出土土器から前期末葉の大木6式から中期中葉の大木8b式までが出土している。特に東側遺物包含層では大木6式から大木7b式への連続的な変遷が確かめられた[7][8]。前期末葉から中期前葉には、東関東系や中部・北陸系土器などの異系統土器[9]も含まれている。土偶は27点出土し、すべて破損品で完全な形のものはない。円盤状の頭部には写実的な顔面表現はなく、乳房や腹・臀部を誇張したいわゆる「出尻型土偶」で、直立する姿勢の立像形となっている。
石器石材のほとんどは近くの白石川水系域で調達され、加工されている。石鏃主体から石錐・石匙主体への変化と礫石器の中では磨石類が主体を占めているのが確認された。このほか装身具として玦状耳飾1点が出土している。
平安時代
出土遺物の検討から9世紀後葉の集落で、馬具や漆紙文書(…白□(河カ)…)、転用硯など律令支配を裏付ける遺物が出土している。墨書土器には「丈」「三」「山本」「慈」「下屋」「弥」等がある。小梁川を挟んで対岸の小梁川東遺跡には、9世紀前葉から中葉の集落が検出されており、その後継集落と見られる。