横岳資貞の子として誕生。
永正3年(1506年)、少弐資元から偏諱を受け資誠を名乗る[1]。資元を助けて、その補佐役に当たっていたという。
永正5年(1508年)、足利義尹は大内氏の力を借りて上洛した。この時、中国・九州の国人が供に随従した。少弐氏の名代として、資誠が上洛している。
享禄3年(1530年)の田手畷の戦いでは、大内義隆の命を受け北九州の諸将を動員した杉興運の攻勢に少弐氏方は劣勢となり、父・資貞が大内氏方に寝返ったが、資誠は終始少弐氏方として戦っている。その後、資元の子・少弐冬尚にも仕え、冬尚の娘を娶って重用された。
永禄12年(1569年)、死去。