山中勝己
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奈良教育大学附属小学校、奈良市立三笠中学校出身[6]。PL学園高校3年生だった1983年夏、六番打者・三塁手として甲子園大会で優勝を経験[6]。甲子園では21打数、8安打を記録[注 3]、攻走守の全てにわたり野球センスを発揮した[1]。同期に加藤正樹が[8]、また1年生の後輩に桑田真澄・清原和博のKKコンビがいた[6]。
明治大学経営学部[9]に進学後、野球部で1985年、2年春のリーグ戦に出場したが秋に疲労が原因で右肩を痛め、その後も野球部には在籍し続けていたものの、再び神宮球場でプレーする機会はなかった[1]。このため大学時代は実績を残せなかったが[3]、午前中にキャッチボールやランニング、午後にトレーニングジムで筋力トレーニングを行うなど、練習に取り組み続けていた[1]。4年生になった1987年秋季リーグ終了後も一人で練習を続けている山中の姿を、中日ドラゴンズの編成本部長補佐を務めていた田村和夫と球団スカウトの中田宗男が目撃、田村は「動きを見る限り、鍛え方しだいでプロでは通用する」と考えた[1]。なお、この時点では遠投で110 mを投げられることなど、肩の故障の回復をアピールしていた[1]。大学時代の同期に主将の坂口裕之、武田一浩と平塚克洋の両投手が[10]、また高校からの2学年後輩に今久留主成幸がいる[9]。
1987年12月17日、中日は山中をドラフト外で獲得したことを発表[1][11]、同月21日に高島覚、辻本弘樹とともに入団発表を行った[2][3]。契約金は1800万円、1988年シーズンの年俸は480万円[1][11]。背番号は55[2][3]。入団時には高校の後輩である立浪和義(同年のドラフト会議で1位指名を受け入団)に負けたくないと抱負を語っていた[2][3]。当時の監督は大学先輩の星野仙一で、ドラフト会議では明大進学を表明していた上原晃を指名するなどの背景もあった。
1988年シーズンは一軍(セントラル・リーグ)公式戦への出場機会はなく、二軍ではウエスタン・リーグ37試合に出場、80打席、75打数、2得点、21安打、0本塁打、11打点、0盗塁、2四球、1死球、10三振、打率.280の成績だった[12]。同年10月29日、森口益光、川本智徳、仲根政裕、蓬莱昭彦とともに球団から戦力外通告を言い渡され[13]、同日付で自由契約となった[14]。阪神タイガースの入団テストを受験したが、肩に不安があるとの理由から不合格に終わり、同年12月時点では奈良県の実家に帰り、スポーツ関係の仕事を中心に就職口を探していると語っていた[15]。