Wikiwand AI

山崎二休

From Wikipedia, the free encyclopedia

山崎 二休(やまざき にきゅう、1554年嘉靖33年/天文23年)-1631年9月8日崇禎4年/寛永8年8月13日))は、琉球王国の医師。北陸越前の人。号は二休、名は守三、大和名は葉氏山崎二休守三。

人物・生涯

越前出身で医師となったが、更に医術を高めるべく修行していたところ、「南海の琉球国には唐渡りの優れた医術がある」と伝え聞き、尚寧王の初年頃(1589年頃)琉球に渡航し那覇に居を構えた。しかし当時の琉球では医術は遅れており、逆にその腕が認められ王の侍医に取り立てられた。

球陽』の記述では、慶長14年(1609年)の薩摩島津氏による琉球侵攻(琉球入り)にあたって首里城西櫓の防備に就き、法元弐右衛門の部隊を撃退した。和睦成立後、城を出て自宅に帰ろうとして歩いている途中、法元の部隊に捕らえられた。「日本人がなぜ琉球に味方するのか」と問われ、「琉球に恩義があるからである」と返答した。翌日、王は薩摩兵に金品を送って山崎を助命した。王の薩摩行きに同行を志願したが、留守を守るよう諭された。

二休の三男、休意(1611年-1662年、名は守庸、唐名は葉自意)は寛永14年(1637年)より3年間京都に留学し、寿徳庵玄由に師事した。医師としての令名高く、慶安4年(1651年)には知行30石と屋敷を与えられた。琉球の医術は遅れていたために慶長18年(1613年)より薩摩の医師が派遣されていたが、この年に休意の技量が薩摩藩にも認められ以後取りやめとなった。同家は6代に渡り医師を輩出した。

子孫に葉氏伊集家などがある。

系譜

  • 父母 - 不詳[1][2]
  • 室 - 真鍋(号は冥山、金千代西登之道永の娘)[1][2]
    • 長男 - 休悦守忠[1][2]
    • 長女 - 真尹金(号は妙馨、那覇住人呉氏石川親雲上政親に嫁ぐ)[1][2]
    • 次男 - 守親(知念筑登之、唐名は葉自秀)[1][2]
    • 三男 - 休意守庸(照屋親雲上、唐名は葉自意)[1][2]
    • 四男 - 頼有法印[1][2]
    • 五男 - 守昌[1][2]

参考文献

外部リンク

Related Articles

Timelines

Top Qs

Fact Checks