山本文男

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国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1937-09-20) 1937年9月20日
没年月日 (2025-08-07) 2025年8月7日(87歳没)
山本 文男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市西区
生年月日 (1937-09-20) 1937年9月20日
没年月日 (2025-08-07) 2025年8月7日(87歳没)
身長
体重
179 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1955年
初出場 1955年7月24日
最終出場 1955年10月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

山本 文男(やまもと ふみお、1937年9月20日 - 2025年8月7日[1])は、広島県広島市観音(現西区観音)出身のプロ野球選手プロ野球審判員で、元セントラル・リーグ審判部長[2]

毅然とした態度で正確な判定が、選手、ファンにも支持された[2]ペナントレースの重要な一戦は勿論、日本シリーズオールスターゲームなど数々の名勝負を担当[2]。担当試合3,564は歴代3位[2][3]。通称「師匠」「審判師匠」。愛称「フミさん」[4]

審判員袖番号は28(1988年初採用から1996年引退まで、2001年以降は牧田匡平がつけている)。

選手時代

太平洋戦争時の疎開のため、広島市立観音中学校を17歳で卒業[3]広島県立広島商業高等学校へ進学する予定であったが、同中学3年の夏に広島カープの入団テストに合格してプロ入り[2][3][4]。179センチの長身から投げ下すストレートは速く、タテに大きく割れるドロップは鋭く、とても中学生とは思えず、野崎泰一審査委員長も「掘り出しもんじゃ」と驚嘆した[4]。しかし山本は「カープに入るつもりはありません」「自分の力を確かめたかっただけです」とのたまわった[4]。野崎はテストの願書から山本の姉の住所を割り出し、姉宅に日参しやっと入団に漕ぎつけた[4]。中学生プロと話題を呼ぶ。

1年目の1955年は、打撃投手を務めながら7試合に登板。2勝2敗、防御率2.74の成績を残す。8月7日の対国鉄戦(広島総合球場)では、国鉄の大エース・金田正一と投げ合い9対8で勝利投手となっている[3][4]。17歳10カ月で挙げたプロ初勝利は現在もカープ球団最年少記録[3]

しかし、肩を痛めたことで翌年以降の登板は出来ずに、1958年限りで引退し、球団職員となった[2][5]

審判時代

白石勝巳の勧めで[5]1962年セントラル・リーグ審判部に入局[2]。1963年5月23日の広島-大洋6回戦(広島市民球場右翼線審として一軍審判デビュー[3]。以後1970年代から1990年代前半まで看板審判の一人として活躍。1990年にベテラン審判が一斉に引退したのに伴い、副部長の座を経ずして第3代審判部長に就任した[3][2][注釈 1]。また、1990年からインサイドプロテクターを着用した。同年から1996年まで、第3代セ・リーグ審判部長を務めた[3]

通算試合出場数は3564試合(歴代3位)。このほか日本シリーズ13回(1973年1975年1976年1978年1980年1982年1983年1985年1988年・1990年)、オールスター6回(1970年1971年1975年1978年1982年1986年。うち1978年、1986年第2戦で球審)の出場歴がある。

日本シリーズでは、1982年・1986年に第1戦、1979年・1983年に第2戦、1987年に第4戦、1976年・1980年に第5戦、1975年・1985年に第6戦、阪急上田利治監督の執拗な抗議で1時間19分中断した1978年第7戦の球審をそれぞれ担当している[2]

引退後は関西所属の審判指導員として後輩の指導にあたり、プロ野球マスターズリーグでの審判のほか、少年野球教室の指導などで活動していた。

2025年8月7日、死去。87歳没。訃報は同年9月1日に日本野球機構(NPB)から公表された[1]

人物

特技はゴルフで、ハンデキャップ0に近い腕前を誇る。

審判としてのエピソード

  • 1987年10月19日巨人-広島戦(後楽園球場)で、巨人の吉村禎章が「カウント2ストライク4ボールからホームラン」を記録した際に球審を務めていた。この際ホームランは、スコアボードの表示(2ストライク1ボール)が手元カウンター(2ストライク2ボール)と異なっていたことから、打者の吉村と捕手達川光男にカウントを確認した。すると、捕手の達川より「スコアボードの表示が正しい」とのアピールを受け、カウント2-1として投手白武佳久が次の球を投じてしまったためカウントが確定した。すなわち、守備側のアピールによって起こった珍事であった。ただ、この試合はペナントレース最終戦で既に巨人の優勝が決まっており、完全な「消化試合」だったため、マスコミでも大きく取り扱われず、上記の真相についてもあまり報道されなかった。ちなみに、このホームランは後楽園球場での公式戦最後の本塁打であり、吉村にとってもキャリア唯一のシーズン30本塁打達成となった。

詳細情報

脚注

関連項目

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