山田珠一
From Wikipedia, the free encyclopedia
豊後国国東郡草地村(現在の大分県豊後高田市)出身。少年時代から漢学を修め、秀才の評判が高かった。済々黌に入学、教師や生徒の間から「今度大分から来た山田は非常に秀才だ。」と喧伝されていた。済々黌で生涯の畏友となる安達謙蔵と出会い、ドイツ語を学び、その学才を佐々友房から高く評価された[1]。卒業後は在学中から手伝っていた九州日日新聞社に入り、主筆を経て、1899年(明治32年)に社長に就任した[2]。また熊本市会議員、市会議長も務め、1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選した。1903年(明治36年)には熊本県会議員に選出され、1907年(明治40年)には副議長となった[3]。1908年(明治41年)の第10回衆議院議員総選挙で国政に復帰し、1920年(大正9年)まで在任、衆議院に計5回当選した。 熊本市内で圧倒的な支持を受けていたが、1924年、熊本県出身者を首相とする初の内閣である清浦奎吾の内閣が、特権内閣として各政党から反発を受け、憲政擁護運動が起きた結果、衆議院が解散され、第15回衆議院議員総選挙の時は、憲政会が地元出身の清浦内閣と対立することに不満を持った熊本電気を中心とする高橋長秋、紫藤章ら実業家や、林市蔵、狩野直喜(京都帝国大学教授)、松浦有志太郎、鳥居素川の強力な支援を受けた旧藩主・細川家の家令の息子である佐藤潤象に敗北した[4][5]。
1913年(大正2年)から1914年(大正3年)までと、1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)と、前後三回、熊本市長を務め、名市長と評価された[6]。
