高橋守雄
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| 高橋 守雄 たかはし もりお | |
|---|---|
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警視総監在任中の高橋守雄 | |
| 生年月日 | 1883年1月1日 |
| 出生地 |
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| 没年月日 | 1957年5月6日(74歳没) |
| 死没地 |
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| 出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
| 前職 | 内務官僚 |
| 称号 |
従四位 勲三等瑞宝章 |
| 配偶者 | 高橋雅子 |
| 子女 | 高橋通敏(次男) |
| 在任期間 | 1931年4月14日 - 1931年12月13日 |
| 在任期間 | 1931年1月17日 - 1931年4月14日 |
| 総督 | 太田政弘 |
高橋 守雄(たかはし もりお、1883年〈明治16年〉1月1日[1] - 1957年〈昭和32年〉5月6日[2])は、日本の内務官僚である。警視総監[3][4]。
熊本県上益城郡浜町(現:山都町)に生まれる。熊本士族・高橋彌八郎の長男[3][5]。
済々黌、旧制七高造士館を経て1908年(明治41年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、高等文官試験に合格[3]。翌年内務省に入り、警視庁警視となる。1910年(明治43年)、家督を相続する[3][6]。
その後、石川県事務官・警察部長、岐阜県警察部長、新潟県警察部長、新潟県内務部長、京都府内務部長、内務監察官等を経て、1922年(大正11年)に第7代熊本市長となった。熊本市長時代には、市内の近代化を推進し、上水道や市電の整備、旧十三連隊跡の市街地編入の三大事業を完成させた。
その後も順調に昇進を続け、滋賀県知事、長野県知事、兵庫県知事、台湾総督府総務長官等を歴任した。そして、1931年(昭和6年)、第34代警視総監に就任。東京市内において前例のない規模の暴力団員らの摘発を指示し、その陣頭指揮をとった[7]。
退官後は熊本に帰り、1941年(昭和16年)には東洋語学専門学校理事、戦後は同校長となっている。同校は1950年(昭和25年)、熊本短期大学となり、1954年(昭和29年)には4年制度の熊本商科大学を開校させ、初代学長になっている。同校は現在熊本学園大学となった。
1957年(昭和32年)に死去した。
人物
備考
栄典
- 位階
- 1909年(明治42年)4月20日 - 従七位[8]
- 1911年(明治44年)5月10日 - 正七位[9]
- 1913年(大正2年)11月10日 - 従六位[10]
- 1915年(大正4年)12月10日 - 正六位[11]
- 1918年(大正7年)4月10日 - 従五位[12]
- 1922年(大正11年)
- 勲章等
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1912年(大正元年)8月1日 | 韓国併合記念章[15] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章(大正)[16] | ||
| 1921年(大正10年)2月1日 | 勲六等瑞宝章[17] | ||
| 1921年(大正10年)7月1日 | 第一回国勢調査記念章[18] | ||
| 1922年(大正11年)2月23日 | 勲五等瑞宝章[19] | ||
| 1922年(大正11年)3月10日 | 日本赤十字社有功章[20] | ||
| 1926年(大正15年)1月21日 | 勲四等瑞宝章[21] | ||
| 1927年(昭和2年)6月1日 | 紺綬褒章[22] | [注釈 1] | |
| 1930年(昭和5年)9月9日 | 勲三等瑞宝章[23] | ||
| 1940年(昭和15年)11月10日 | 紀元二千六百年祝典記念章[24] |