岡原昌男
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- 岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)生まれ。
- 小学校を5年、中学も4年とそれぞれ1年ずつ飛び級で、仙台二中から旧制第二高等学校に入学。同高も2年で、東京帝国大学法学部英法科に入学。在学中に高等試験司法科に合格。20歳で司法官試補。
- 検事として、函館、浜松、千葉に赴任。
- 司法省刑事課長、人事課長、会計課長を歴任。
- 戦前の検察エリートとして、公安検察に属していたが、思想課長など露骨なポストについていなかったために、公職追放を免れる。
- 1954年法務省刑事局長から千葉地方検察庁検事正に左遷。その後、東京高等検察庁次席検事。
- 1960年 京都地方検察庁検事正に異例の5年間在籍。3年目のときに、検察首脳が居並ぶ検事正会議の席上、「京洛の巷にさまようこと3年・・・」と痛烈な発言をしたが、反応はなく、札幌高等検察庁検事長、福岡高等検察庁検事長、大阪高等検察庁検事長と栄進はしたが、地方ばかりを歩まされる。こうした人事の背景には、当時、検察内部を二分した派閥抗争であると言われる。戦前の思想検察を代表する塩野閥の系譜につながる岸本義広の派閥と、刑事検察の小原閥の系譜を継ぐ馬場義続の派閥争いが激化し、岸本は検事総長一歩手前の東京高検検事長になりながらも、検事総長にはなれずに退官し、衆議院議員となる(この時の選挙違反事件が摘発されるが激烈を極めたと言われる)。岡原は、この岸本派に繋がるとされたため、人事では中枢を歩めず、大阪高検検事長として検察官人生を終えることとなる。
- 1970年10月20日 大阪高等検察庁検事長のときに、最高裁判所長官の石田和外から、最高裁判所判事就任依頼の電話を受ける。石田は最高裁判所人事課長のときに岡原が司法省人事課長であったころから、旧知の間柄であった。
- 1970年10月28日 最高裁判所判事に就任。このときに、「私は検察の利益代表ではありません」と述べる[1]。
- 1977年8月26日 弁護士出身の藤林益三長官の後を受けて、第8代最高裁判所長官に就任。
- 1979年4月2日 退官。後任の最高裁判所長官は、裁判官出身の服部高顯。
- 1994年7月14日 死去。死没日付をもって従五位に従二位に進階[2]