崔州平
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正史
諸葛亮が荊州南陽郡(現在の湖北省襄陽市、隆中)に蟄居していたとき、諸葛亮はしばしば自らを春秋時代の斉の名相管仲や戦国時代の燕の名将楽毅に準えていた。当時の人々はこれを取り合わなかったが、諸葛亮と親交が深かった崔州平と徐庶だけは、諸葛亮の高才なることは確かに先の二者にも比肩し得る人物であると認めていた[1]。
なお、襄陽の檀渓水の北岸に崔州平の旧居があったという[2]。
三国志演義[3]
元の羅本(羅貫中)による小説『三国志演義』では、第三十七回に登場。玄徳(劉備)が関羽・張飛を連れて孔明(諸葛亮)の蟄する草廬を訪れた際、諸葛亮と人違いされる。
崔州平は玄徳に「将軍は何のために孔明に会おうとなさるのですか。」と問い、玄徳が「今や天下は大いに乱れ、四方は騒然としております。孔明殿にお会いし、国家を安んじ民を治める策を求めたいのです。」と答えると、崔州平は「公が乱を治めることを第一とされるのは仁心からでしょう。しかし古来、治と乱は一定しないものです。高祖(劉邦)が白蛇を斬って挙兵(斬蛇起義)し、無道の秦を誅したのは、乱から治へと入った例です。その後、哀帝・平帝の時代まで二百年の間、太平が長く続いたため、王莽が簒奪し、また治から乱へと入りました。やがて光武帝(劉秀)が中興を成し(新末後漢初)、基盤となる事業を立て直して、再び乱から治へと入り、そこから今日まで二百年、民は久しく安んじてきました。ゆえに、今また兵戈が至る所で起こっているのです。これはまさに治から乱へと移る時であり、俄に定めることはできません。将軍が孔明に天地を取り持たせ、乾坤を繕わせようとしても、恐らく容易ではなく、ただ心力を費やすばかりでしょう。「天に順うものは栄え、天に逆らうものは滅ぶ[注釈 1]」や「数の定まるところ、理もこれを奪えず、命のあるところ、人もこれを強いることはできない[注釈 2]」などと聞きませんか。」と理を説いた上で、仮に孔明を迎えることができても時代の流れに逆らうことは難しいと玄徳を諭した。
これに玄徳は「先生のお言葉は、誠に卓見です。しかし私は漢室の血を引く者、漢を助け支えるのが当然です。どうしてこれを数や命に委ねることができましょうか。」と駁した。崔州平は「山野の一介の身、天下のことを論じるには足りません。ただご質問を受けたので、妄言したまでです。」と遜り、玄徳は 「ご教示を賜り、感謝いたします。ただ、孔明がどこへ行ったのかご存じありませんか。」と尋ねたが、崔州平は「私も訪ねようと思っていましたが、どこへ行ったのか分かりません。」と答え、玄徳に自身の郡への同行を頼まれても断った。そのうえで、「愚かな私は閑散を好み、功名には久しく興味がありません。また日を改めてお会いしましょう。」と言って深く一礼し、玄徳のもとから去っていった。玄徳は関羽・張飛とともに馬に乗り、張飛は「孔明にはまた会えず、そのうえこの腐儒に出会って、長々と無駄話をしただけだ」と愚痴したが、玄徳は「これもまた隠者の言葉なのだ。」と述べた。
脚注
注釈
出典
- ↑ 『三國志』蜀書「諸葛亮傳」:玄卒,亮躬畊隴畝,好為《梁父吟》。〈《漢晉春秋》曰:亮家于南陽之鄧縣,在襄陽城西二十里,號曰隆中。〉身長八尺,每自比於管仲、樂毅,時人莫之許也。惟博陵崔州平、潁川徐庶元直與亮友善,謂為信然。〈按《崔氏譜》:州平,太尉烈子,均之弟也。
- ↑ 酈道元『水經注』卷二十八「沔水」:又東過襄陽縣北,〈沔水又東逕萬山北,山上有《鄒恢碑》,魯宗之所立也。山下潭中有《杜元凱碑》,元凱好尚後名,作兩碑竝述己功,一碑沈之峴山水中,一碑下之于此潭,曰:百年之後,何知不深谷爲陵也。山下水曲之隈,云漢女昔遊處也。故張衡《南都賦》曰:遊女弄珠于漢皋之曲。漢皋,即萬山之異名也。沔水又東合檀溪水,水出縣西柳子山下,東爲鴨湖,湖在馬鞍山東北,武陵王愛其峯秀,改曰望楚山。溪水自湖兩分,北渠即溪水所導也。北逕漢陰臺西,臨流望遠,按眺農圃,情邈灌蔬,意寄漢陰,故因名臺矣。又北逕檀溪,謂之檀溪水,水側有沙門釋道安寺,即溪之名,以表寺目也。溪之陽有徐元直、崔州平故宅,悉人居,<後略>
- ↑ 『三國志演義』:玄德惆悵不已。張飛曰:「既不見,自歸去罷了。」玄德曰:「且待片時。」雲長曰:「不如且歸,再使人來探聽。」玄德從其言,囑付童子:「如先生回,可言劉備拜訪。」遂上馬,行數里,勒馬回觀隆中景物,果然山不高而秀雅,水不深而澄清;地不廣而平坦,林不大而茂盛;猿鶴相親,松篁交翠,觀之不已。忽見一人,容貌軒昂,丰姿俊爽,頭戴逍遙巾,身穿皂布袍,杖藜從山僻小路而來。玄德曰:「此必臥龍先生也。」急下馬向前施禮,問曰:「先生非臥龍否?」其人曰:「將軍是誰?」玄德曰:「劉備也。」其人曰:「吾非孔明,乃孔明之友,博陵崔州平也。」玄德曰:「久聞大名,幸得相遇。乞即席地權坐,請教一言。」二人對坐於林間石上,關、張侍立於側。州平曰:「將軍何故欲見孔明?」玄德曰:「方今天下大亂,四方雲擾,欲見孔明,求安邦定國之策耳。」州平笑曰:「公以定亂為主,雖是仁心,但自古以來,治亂無常。自高祖斬蛇起義,誅無道秦,是由亂而入治也;至哀、平之世二百年,太平日久,王莽纂逆,又由治而入亂;光武中興,重整基業,復由亂而入治;至今二百年,民安已久,故干戈又復四起。此正由治入亂之時,未可猝定也。將軍欲使孔明斡旋天地,補綴乾坤,恐不易為,徒費心力耳。豈不聞『順天者逸,逆天者勞』;『數之所在,理不得而奪之;命之所在,人不得而強之』乎?」。玄德曰:「先生所言,誠為高見。但備身為漢冑,合當匡扶漢室,何敢委之數與命?」州平曰:「山野之夫,不足與論天下事,適承明問,故妄言之。」玄德曰:「蒙先生見教,但不知孔明往何處去了?」州平曰:「吾亦欲訪之,正不知其何往。」玄德曰:「請先生同至敝縣,若何?」州平曰:「愚性頗樂閒散,無意功名久矣。容他日再見。」言訖,長揖而去。玄德與關、張上馬而行。張飛曰:「孔明又訪不著,卻遇此腐儒,閒談許久!」玄德曰:「此亦隱者之言也。」
- ↑ 中日辞典 第3版『顺天者昌,逆天者亡』コトバンク。https://kotobank.jp/zhjaword/%E9%A1%BA%E5%A4%A9%E8%80%85%E6%98%8C%2C%E9%80%86%E5%A4%A9%E8%80%85%E4%BA%A1。2026年1月23日閲覧。