張飛
中国後漢末期から三国時代の蜀の将軍、政治家
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張 飛(ちょう ひ、拼音: 、?[注釈 1] - 章武元年〈221年〉6月[1])は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の将軍・政治家。
幽州涿郡涿県(現:河北省保定市)の人。封号は新亭侯、のち西郷侯[注釈 3]。諡号は桓侯。子は張苞・張紹・敬哀皇后張氏・張皇后。孫は張遵[6]。
後漢末の群雄の一人である、蜀漢初代皇帝・劉備の挙兵に当初から付き従った人物で、その人並み外れた勇猛さは関羽とともに、その名を中原に轟かせた(→評価)。
その武勇は当代だけには留まらず、後世ではさらに大いに称えられ、『三国志演義』では五虎大将軍の一人に数えられる。『演義』を始めとしたさまざまな文学・演劇などの創作作品においても、多くの脚色を加えて取り上げられており、現在でも中国や日本を中心にその人柄を親しまれている(→創作上の張飛)。
生涯
劉備に従う
劉備が黄巾の乱に臨んで郷里の涿郡で義勇兵を集めようとした時、他所から流れてきた関羽と共に、若き張飛もその徒党に加わり、腹心の配下となった[6][7][8][9]。以後は関羽と共に劉備から兄弟のような親愛の情を受けることとなり、大勢の前では劉備を主君として立て、命がけで護衛の任務を務めたという[7][10]。また、関羽の方が数歳年長であったため、関羽を兄のように敬愛して仕えていた[6][9]。渡邉義浩は、三人が秩序よりも「義」や「情」を優先する、「侠」として強い繋がりで結ばれていたと指摘する[11]。
初平2年(191年)、劉備が公孫瓚に採り立てられて平原相となると[12]、関羽と共に別部司馬に任じられ、それぞれが一軍の指揮を執る将となった[6][7][13][10]。
興平元年(194年)、劉備は身を寄せていた徐州の陶謙に、これまでの功績を評価され、位を譲られ徐州牧となる[1][14]。
各地を転戦

建安元年(196年)、劉備が徐州に侵攻した袁術と戦っている最中、張飛は本拠地の下邳の留守を任された[15]。そこで元陶謙の将・曹豹と対立した。『英雄記』によると、理由は不明だが、張飛が曹豹を殺そうとしたという[16][15]。劉備と袁術が1か月睨みあっている隙に、劉備に身を寄せていた呂布が裏切り下邳を攻撃、曹豹が寝返りこれに呼応したため、張飛は敗北[17]、劉備の妻子を捕虜にされてしまう[18]。劉備と呂布は一旦は和睦したが再び仲違いを起こし、劉備は曹操の元に身を寄せた[1][15]。
張飛は曹操の呂布討伐に劉備と共に従軍し[19]、その戦いでの功績を認められ、曹操から中郎将に任命された[6][9]。そののち劉備が曹操に背き、袁紹・劉表に相次いで身を寄せると[1]、それにも付き従い各地で転戦した[6][9]。『魏略』によると、建安5年(200年)、薪を伐採していた当時13、4歳だった夏侯氏 (蜀漢)(夏侯覇の従妹)を捕えると、良家の娘だったことから張飛は彼女を妻とした[20]。
長坂橋大喝

建安13年(208年)、荊州牧の劉表が死去し、曹操が荊州へ進軍すると劉備は江南へ移動した[21]。曹操は昼夜をかけてこれを追い、当陽県の長坂まで到着した。劉備は曹操がやってきたと聞くと妻子を棄てて、諸葛亮・張飛・趙雲ら配下の数十騎と逃走した[22]。張飛は20騎ほどを従えて殿軍を引き受けると川に拠って橋を落とし、目を怒らせ矛を横たえ「張益徳、これにあり!命を惜しまん奴からかかって来い!いざ生死を決さん!」[注釈 4]と曹操軍に向けて言い放ったところ、誰もあえて近づこうとしなかった。これによってついに劉備は落ち延びることができた[6][25][26]。
そののち、劉備と呉の孫権が同盟を結び、赤壁の戦いでともに曹操を破ると[27]、『呉録』によれば、周瑜が江陵を攻めたとき、張飛の援軍1000人が加勢したという記述があり[28]、張飛を高く評価したという[29]。劉備が荊州南部を攻略すると[30]、張飛は宜都太守・征虜将軍に任命、新亭侯(爵位)に封じられたが、しばらくして南郡に転任することになった[6][31]。
劉備軍の大将
建安16年(211年)、劉備が劉璋に招かれて益州入りし、翌建安17年(212年)、劉備が法正らと謀って益州攻略を企てると、張飛は諸葛亮・趙雲・劉封らと共に援軍として益州に攻め込み、手分けして郡県を平定した[6][1][32][33]。
義釈厳顔

江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにした。このとき、張飛は自身が大軍でやってきたのに、厳顔が少数で抗い、降伏しなかった事に腹を立て、厳顔を詰問した。厳顔は「お前達は無礼にも、我が州(益州)に武力をもって侵略した。我が州には断頭将軍(首をはねられる将軍)はいても、降伏する将軍はおらぬ!」と張飛を面罵した。腹を立てた張飛は、部下に彼の首を切らせようとしたが、厳顔がそこでさらに「匹夫め、さっさと斬れ!怒るだけ無駄だ」といったので、張飛は厳顔を見事だと思い彼を釈放し、以後は賓客として扱った[6][31]。
厳顔の背景については『三国志』に記載がないが、東晋・常璩による『華陽国志』巻12には「臨江の人」と記しており[34]、臨江県は巴郡に属する(現:重慶市忠県)。古代の「巴」の地域の民風は、同書巻1によれば「素朴で実直」[35]、将領が多く輩出され、「巴に将あり、蜀に相あり」[36]と総括されている[37]。
方北辰によると、厳氏一族は臨江県の土着大族(五大名家の第一位)で、厳顔の非凡な気骨は土地柄の気風に加え、将領代表としての面目を保つためと推測し、その上で張飛が彼を厚遇したことは益州の支配層の支持を勝ち取るための重要な行為だったと見なして、「厳顔が死を恐れぬ硬骨漢の精神を十分に表現しきったのを見届けてから解放する」という手順を踏むことで、彼の面子を保ちながら味方へ引き入れた張飛の配慮と政治的見識を評している[注釈 5][37]。一方、渡邉義浩は「敵の節義を認める義将」へと成長した張飛を評価するが、しかしその背景にある知識人層の侠(庶民)・武官蔑視を取り上げ、厳顔を許したのは知識人層を意識しての行動と推察している(後節:人物#逸話・異説「零陵先賢伝」参照)[38]。
張飛は劉璋軍との全ての戦いで勝利し[注釈 6]、成都で劉備と落ち合った[40]。劉備は益州奪取における張飛の功績を評価し、諸葛亮・法正・関羽と同等に金五百斤・銀千斤・五千万両・錦千匹の褒賞を与え、巴西太守に任じた[1][7][6][31]。
二張争鋒
建安20年(215年)、曹操は漢中の張魯と戦って降伏させると、配下の夏侯淵と張郃に漢中の守備を任じ、張郃は巴東・巴西に攻め込みその住民を漢中に移住させ、さらに渠宕・蒙頭・蕩石に軍を進めたところ、劉備の命を受けた張飛が進軍した[41]。張飛、張郃の軍は50日あまり対峙したが、張飛は精鋭の1万人ほどを率い山道の隘路を利用し、迎え撃つ作戦を立てた。張郃は狭い山道の中で軍が前後で間延びしたために各個撃破され、馬を捨て、たった数十人の部下と共に敗走、これにより巴の地は安寧を取り戻した[6][42][43]。
方北辰は、この戦いでの張飛を「自ら先頭に立ち、敵陣に突っ込む「体力型」の猛将としての本色を見せると同時に、深く思考を巡らせ、地理的条件を存分に利用して敵の弱点を突くという知略に満ちた「知力型」の司令官としての風範をも示した」として、「戦場を駆け抜けた三十数年の経験が、最高のかたちで結実した瞬間」と評している[42]。
建安22年(217年)、張飛は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での陽動作戦に馬超・呉蘭らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、この戦いでは目立った戦果を挙げることなく撤退した[44][45][41]。

建安24年(219年)春、劉備が漢中を攻略すると、成都に政庁を置くことにしたため、前線の漢中の守備を誰に任すべきかということになった。周囲は張飛が任されるものと思い、張飛自身もそう考えていたが、劉備は魏延を抜擢した[46][47]。盧弼 (中華民国)によれば、張飛はその暴虐な性格によって兵卒から嫌われていたので、漢中の守備から外されたのだという[48]。
同年秋、張飛は他の群臣達と共に劉備を漢中王に推挙した[1][49]。劉備が漢中王になると、張飛は関羽・馬超・黄忠とともに昇進し、仮節・右将軍(漢の重号将軍)に任命された[6][50]。しかしこの直後、関羽は呉の裏切りに遭い殺害された(樊城の戦い)[7][51]。
閬中での最期
建安25年(220年)正月、曹操が病死し、子の曹丕が後漢献帝に禅譲されるかたちで魏の皇帝に即位した[52]。これを受けて建安26年(221年)4月、劉備は群臣に擁立され、漢の正統な継承者として漢(蜀漢/季漢)の皇帝を称し、元号を章武とした。張飛は車騎将軍兼司隷校尉に任命され、西郷侯[注釈 3]に昇進し、その際、劉備は以下の詔で張飛を称えた[6][50]。
朕は天の定めに従い、大いなる漢王朝を継承し、残虐な者を払い、乱れを鎮めようと努めてきたが、いまだ天下の隅々まで照らし治めるには至っていない。今、魏賊が害をなし、民は苦しみの最中にあり、漢王朝を慕う士たちは、首を長くし救いを待ち望んでいる。朕はそれを思うと心痛み、座しても落ち着かず、食事の味がしないほどである。軍を整え誓いを立て、まさに天に代わり罰を下そうとしている。
そなたは忠義にして剛毅、その働きは召虎(周王朝時代の名臣)に匹敵し、その名は遠近に知れ渡っている。ゆえに特に命を下して爵位を進め、首都の統治を任せる。謹んで天の威光を体現し、徳をもって民を従わせ、刑罰をもって叛逆を討ち、朕の意に沿うよう努めよ。『詩経』にもこうあるではないか。「急がず焦らず王国の規範となれ。軍功に励んだからこそ、この福を授けるのだ」と。そなたが励まぬはずはない! — 『三国志』巻三十六「張飛伝」劉備の詔[6][50]
同年、劉備が呉を討つため荊州へ侵攻することになると、張飛は1万の兵士を率いて閬中を出発し、江州で劉備と合流することになった[6][53]。
その準備をしている最中の6月[1]、張飛は部下の范彊・張達によって暗殺され、二人は首級を携え呉へ逃亡した。史書には犯行の直接的な動機は記されていないが、『三国志』を著した陳寿は、張飛が身分の低い者や部下には暴虐な性格であったことや、劉備がかねてより張飛が死刑を頻繁に行い、鞭打ちした部下を自分の近侍として仕えさせていることを戒めていたエピソードを並置しており[6][53]、事件の背景であることを強く示唆している[54][42]。この時、劉備は張飛の都督から上奏文が届けられたと聞くと、その内容を聞く前に「ああ、飛が死んだ」と悟ったという[6][53]。
人物
背景・年齢

張飛像
出自に関する記録は「幽州涿郡の人」[6][9]のみで、家族や背景については不明である[57]。
正史『三国志』を基にした歴史小説『三国志演義』(以下、『演義』)や民間伝承、創作作品においては、「身の丈八尺」(約185cm)、「豹の頭にどんぐりまなこ、燕の顎に虎髭」、「酒好きの乱暴者」、「肉屋を営んでいた」、「実家は富貴」とするが、これらは全て史書にはない創作である[58]。研究者間では、劉備・関羽との関係にみられる「侠」としての強いつながりなどから[59]、平民の出だったと考えられている[57]。
また、『演義』は「55歳で死去」[60]と記すが、史書には「関羽の方が数歳年上だったため兄事した」[6][9]、「221年6月に死去」[1]と記されるのみで、生年・享年ともに記述はない[注釈 7][62][63]。潘眉は、「近世の星占師の書は、関羽は四戊午生まれ(178年)、張飛は四癸亥生まれ(183年)だと推測しているが、なんの根拠もない説である。先主(劉備)の郷里での挙兵は初平元年(190年)の時で、もし関羽が戊午生まれならば、関・張はそれぞれ13歳・8歳で劉備に従軍し、15歳・10歳で別部司馬に任じられたことになる。これはとても根拠とするには足らない」と否定し、二人が劉備から兄弟のような恩寵を受けていたことから、「先主は初平3年(192年)の時点で32歳であるから、関・張も先主と年齢が近かったに違いない」と推測している[注釈 8][65]。
武勇・人柄
陳寿が記した正史本伝「張飛伝」は極めて簡素な記述に留まっている[注釈 9][70][71]。のちの時代に裴松之が正史を補完するためにさまざまな文献を引用して注釈(裴松之注、裴注)を付し、これにより黄忠を除いた他の五虎将(五虎大将軍:『演義』などの創作作品に登場する関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠ら五名の架空の称号であるが、彼らを語る際に便宜上用いられる)の本伝が大幅に補強されたのに対し、張飛に関する追加はわずか30字にすぎない(表参照)[66]。
張飛が参加した戦闘については、「張飛伝」は3つほど(長坂、益州、漢中)しか言及していないが[70]、しかしその少ない記述においても、陳寿は張飛の並外れた勇猛さや人となりを伝えている。『演義』と同じく兵卒には乱暴な一面があった一方で、敵将の厳顔を認めて解放する、知略で張郃を追い詰めるなど、武力一辺倒の人物ではなかったことが窺え[72][42]、また、自身の部下である功曹・馬斉の能力を認めて劉備に推薦し、その結果、馬斉は尚書郎に任命されている[73]。
同時代の他の人物伝にも、たびたび関羽と共にその武勇が称えられ、後世には王に追封されるなど、神格化されるにまで至っている(後節:評価)。民間では『三国志平話』や『演義』などの文学作品、雑劇や京劇などの演劇において、さらにその武勇と性格が誇張され、「暴れん坊・張飛」は人々に愛されるコミカルなキャラクターとして定着していくことになる(後節:創作上の張飛)。
逸話・異説

張飛擂鼓台
張飛の愛馬「豹月烏」、「玉追」、書画に優れていたといった伝承、張飛による道路建設、武官と文官間の差別意識など、さまざまな逸話が残されている。
- 愛馬
- 北宋・葉廷珪の『海録砕事』に、張飛の馬の名前として「豹月烏」が記され、『三国志補注』にも引用されている[74]。また、多くの明代には張飛の愛馬の名前が「玉追」であったと記され、さらに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」の慣用句にならって、「人中に張飛あり、馬中に玉追あり」と伝えられている[75]。
- 美人画
- 張飛が書画に優れ(後述の『張飛立馬銘』および「儒将・張飛の成立」を参照)[76][77]、「美人画を描くのが得意だった」という伝承がある[78]。涿州の「鼓楼」の北側にある『女媧娘娘補天図』、房樹村の「万仏閣」にある壁画は張飛が描いたものとして、地元では強く信じられている。伝承では、少年時代の張飛は気性が荒く、父が招いた家庭教師を次々に追い出す有様だったが、その気概を見抜いた伯父は、文武に優れ、過去に朝廷の将官を務めた王養年という人物を紹介した。張飛は、政治の腐敗を憂いて野に下り、私塾を開いた王先生を尊敬し、その指導を素直に受け入れた。王先生は張飛の粗暴さをなだめるため書画を教えたところ、張飛の才能は目覚ましく開花し、独自の風格を築くに至った。これがのちに、智謀に優れた勇将・張飛の礎となったと伝わっている[79][80]。
- 翠雲廊
- 四川省北部の剣門関一帯の古蜀道の長廊を指し、剣閣県を中心に北の龍潭、西南の梓潼県、東南の閬中を結ぶ総延長150kmの街道にある[81]。植林によって整備された高くそびえ立つ巨大な柏の木々が千年を超える古蜀道の両脇に並び、酷暑でも日陰では涼しさを感じられ、緑化の模範的な事例とされる[42]。「張飛柏」とも呼ばれ、資料には秦漢時代から始まり、絶えず植林されてきたとあるが、言い伝えによれば、張飛が巴西太守を務めていた時に始まり[81]、それ以来、歴代の地方官や現地の民衆は、張飛が当時立てた「規矩(しきたり)」を遵守し、絶えず柏を植え厳格に保護してきたという。全盛期には三百里に渡って十万本の樹があったとされ、現在は剣門蜀道全体で約8,000本の古柏が残り、中には樹齢1700年を超える古柏もあることから、張飛が当時植えたものと信じられている[42]。
- 張飛擂鼓台
- 三遊洞摩崖に位置。地方志によると赤壁の戦いの後、張飛が宜都太守に任命されると、ここで太鼓を打って練兵したという。現在は張飛像が設置されている。また、この近くには劉封(劉備の養子)が築いたとする「劉封城」があったとされ、後漢時代の瓦などが出土されている[82]。
- 零陵先賢伝
- 『三国志』蜀志「劉巴伝」が注に引く『零陵先賢伝』によると、庶民(当時の用語では庶人)上がりの張飛が士大夫の劉巴の下に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがにその態度に腹を立て、諸葛亮もまた劉巴と張飛の間を取りなそうとしたが、劉巴は「大丈夫(立派な男)たる者がこの世に生を受けたからには、当然、天下の英傑とこそ交友を結ぶべきです。どうして兵隊野郎(張飛の事)と語り合う必要がありましょうか」と言い捨て、ついに張飛とは親交を結ぶことが無かった[83][84]。知識人層にとって武力だけの武官は野蛮な軽蔑対象であり[11]、士大夫と庶民との間に厳然たる身分差と、それによる差別があったことが窺える[85]。
- 古今刀剣録
- 南朝梁・陶弘景『古今刀剣録』によると、張飛は新亭侯(爵位)に封じられた際、職人に命じて赤朱山の鉄から一振りの刀を造らせ、「新亭侯蜀大将也」(新亭侯、蜀の大将なり)と銘を刻んだ。のちに范彊らに殺された際、刀は呉に持ち込まれたという[86]。また、同書には章武元年(221年)に劉備が皇帝に即位すると、金牛山の鉄から八振りの剣を鋳造し、一振りを張飛に与えたという逸話もある[87]。
- 張飛立馬銘
- 明代、八濛山(四川省渠県)の石壁に岩に刻まれた隷書の文章が発見された。「漢将軍飛率精卒萬人大破賊首張郃於八濛立馬勒銘」(漢の将軍張飛が精兵万人を率いて八濛において敵将張郃を大破する、ここに軍功を刻む)。後世の人々はこれを「張飛立馬銘」と呼び、張飛に優雅な一面があることに驚かされた。現在は摩耗により判読が難しくなっているが、清光緒年間の拓本がありその筆跡を堪能できる[88]。
- しかし、『張飛立馬銘』を含めた張飛の作とされる一連の作品群については、真偽を疑う学者も存在する[89][注釈 10]。現存する資料のうち『立馬銘』に関する最も早い言及は明代の文人楊慎(蜀の出身)の著作『全蜀芸文志』であり[91]、古より書道に関する『四体書勢序』、『書物』、『文字志』、『書断』、『叙書賦』、『法書要録』、『歴代名画記』、『墨藪』、『宣和書譜』、『書史会要』などの著作は、一度も張飛の名前に触れていない[注釈 11]。そのため、近年においては、この銘文の「発見者」である楊慎が捏造したものだったと考えられている[89][注釈 12]。
- 儒将・張飛の成立
- こうした「書画に優れた張飛」というイメージの成立には、宋代以降の儒教的価値観の変化が背景にある。朱子学が興隆すると、道徳秩序の再構築と忠孝節義の奨励が進められた。この新たな評価基準に基づき歴史人物の再検討が行われる中で、蜀漢の諸葛亮・関羽・張飛は「三英」として顕彰される重要人物に位置付けられた[93]。この思潮は民間信仰にも波及した。それまで、部下に暗殺された経緯から怨念を持つ「厲祀(れいし:祟り神)」として恐れを込めて祀られていた張飛は、一転して劉備の志に準じた義将へと神格化され、各地に祠廟が建立された[94]。
- このように宋代に「神聖化」が行われた張飛像は、明代に入ると文人文化の影響を受け、さらに「儒雅化(インテリ化)」が進んだ。その結果、書道・文章・絵画のすべてに秀でた「文武両道の儒将」というイメージが確立された。歴史学者の蔡東洲は、こうした作品群や伝承の多くが史実としての根拠に欠ける偽作であることを指摘しつつも、それらは「民間社会が張飛を崇拝し、完璧な張飛像を再構築しようとした特殊な反映」であると分析し、後世の人々が張飛という英雄に新たな彩りを与えようとした文化的営為として評価している[95]。
家族
| 張飛 | 夏侯氏 | 劉備 | 甘夫人 | 関羽 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 張苞 | 張紹 | 敬哀皇后 | 張皇后 | 劉禅 | 関興 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 張遵 | 女 | 関統 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
※長男・張苞と次男・張紹は夏侯氏との子であるかは史書に記述がなく不明。
※参考資料:「[96]」を基に作成。
史書には二人の息子と二人の娘、一人の孫がいたことが記されている[97]。『演義』では劉備・関羽と義兄弟になっているが、史実ではそれぞれ世代を超えて婚姻が結ばれ、姻戚関係が築かれている[98][96]。張飛の娘二人は、ともに劉備の息子である蜀の二代皇帝・劉禅の皇后に立てられていることから、丹羽隼兵・方北辰らは、二人が美貌の持ち主であったと見なし[99]、さらにその父である張飛も美男子であった可能性を指摘している[100][42]。
張飛の妻・夏侯氏 (蜀漢)は夏侯覇(夏侯淵の次男)の従妹であったため、夏侯淵が漢中で戦死した際には夏侯氏が埋葬を強く願い出たことや[101]、魏で司馬懿による政権掌握の政争が起こったときには、夏侯覇がその伝手を頼って蜀に亡命している[102]。その際、劉禅は自らの子を指して「君たち夏侯家の甥だ」と言い、夏侯覇を手厚くもてなしたという[103]。夏侯覇の母は曹操の妻の妹であり、張飛は曹一族と夏侯一族とも親戚関係となっていた[104]。しかし張飛の妻に関連するこれらの記述は『三国志』にはなく、裴松之が注引した『魏略』にのみ見え、その信憑性について疑問を呈する研究者もおり、金文京は、張飛と夏侯氏が偶然山で出会ったという記述は「伝記的でにわかには信じがたい」「彼を懐柔するために作られた話ではあるまいか」と述べ、政略的な虚構の婚姻話の可能性を指摘している[105]。
蜀漢の滅亡の際には、次女の張皇后、次男の張紹が生き残ったことが伝わるが[55][106][107]、子孫のその後の行方は不明である。後世の金・元時代の燕の地域には、張飛の子孫を称する人物が複数いたという[24]。
祠墓・祠廟

- (1) 張桓侯廟
- (1) 外観
- (1) 外観
- (2) 張桓侯祠
- (2) 墓塚
- (2) 張飛墓亭
中国の民間伝承や古跡で伝わる三国時代の人物像や事績は、『演義』や京劇などの創作物に強く影響を受けており[108]、張飛も例外ではなく、祠廟の塑像の造形や語られる事績も、以下のように『演義』と混同されることが多い。
祠墓
張桓侯廟(1:以下、張飛廟)は長江南岸の飛鳳山麓に位置していたが、三峡ダム建設のため、現在の盤石鎮龍安村に原物が移転された。張飛の生誕日を旧暦の8月28日に指定し、廟会(びょうえ:日本の縁日にあたる[109])が毎年開催されている。雲陽の人々の伝説によれば、「張飛の部下だった范疆と張達は、張飛が酔い潰れて眠っている隙を突き[注釈 13]、彼の首を斬って呉へ向かったが、雲陽を通り過ぎる途中で呉と蜀が講和したことを知り、絶望した二人は慌てて張飛の首を長江に投げ捨て、流された首を老漁師が釣り上げた。張飛は夢の中で漁師に〈俺の首を背負って歩き、もう背負えなくなった場所に廟を建ててほしい〉と告げた」といい、張飛廟の由来とされる[110]。
雲陽と周辺地域では、張飛が張王菩薩へと神格化され、長江を行き来する船の守護神にもなっている。清の康熙年間、張鵬翮が船で帰郷し、張飛廟のそばを通った際、「文官たる者が武将を拝むものか」と大言を吐くと、張飛が大いに威厳を示し、逆風を30里(約15km)にわたって吹き送り、船が3日間動けなくなったため、生贄と供物を揃えて張飛廟を拝祭すると、船はすぐに順風に乗って動き出したことから、これ以後、張飛は長江で往来する船の道中安全を守る神霊になったという。このとき張鵬翮が張飛に感謝して読んだ詩は、現在も廟の石壁に残されている[110]。2001年6月5日、全国重点文物保護単位指定[111]。
主神として祀る祠廟
- (3) 自貢桓侯宮
- (3) 得月亭
- (4) 涿州張飛廟
- (4) 張飛井戸と亭
- (4) 張飛井戸
- (5) 楼桑廟三義宮
- (3) 自貢桓侯宮:四川省自貢市。
- (4) 涿州張飛廟:河北省保定市。故郷涿洲。
- (5) 楼桑廟三義宮:涿州市松林店鎮。「漢昭烈帝廟」とも。
- 龍岡古廟:広東省開平市。劉・関・張・趙の四氏姓が劉備・関羽・張飛・趙雲を祖先として祭祀している。
- 東興市場福興宮:台湾台中市東興市。台湾で唯一、張飛を主神に祀る廟[112]。
涿州張飛廟(4)は張飛の故郷・涿州の「忠義店」(村名)にあり、清朝初期、涿州長官・佟国翼が桃園の義を称え、「張飛井戸」(後節:民間伝承「張飛井戸」参照)の歴史に感心し、資金を出して古井戸を修復、康煕39年(1700年)に慰霊祭を行った際に碑文を撰して「漢張桓侯古井碑」を立てた。そののち村人が遺跡に高台を築いて井戸枠と碑をそこに上げて保護したという。この村はもとは「桃荘」といい、その後は長く「張飛店」と呼ばれ続けたが、「名を呼ぶのは失礼」として佟国翼が「忠義店」に改称させている。村の南には張飛廟が建立され、蛇矛を持った張飛の塑像を祀り、柱の対聯は乾隆帝の筆によるものと伝わっていたが、のちに文化大革命で全て破壊された[113]。現在の廟は1991年再建。
楼桑廟三義宮(5)は隋代に創設され、「桃園の誓い」の伝承を記念して建立された。修繕が繰り返され、明代の正徳3年(1508年)に拡張、武宗(正徳帝)から「勅建三義宮」との璽書(じしょ:皇帝の印が押された公文書)を賜った。1960年代末、大部分が文革によって破壊され、宮門だけが残る状態となった。1996年に再建が始まり、1998年10月に一般公開された[114]。
龍岡古廟は清・康熙元年(1662年)、劉・関・張・趙の四姓が土地を守るために団結して建立した廟。それぞれの祖先とする劉備・関羽・張飛・趙雲と、諸葛亮を祀っている。19世紀末から20世紀初頭に海外華僑が設立した団体「龍岡親義公所」はこの古廟と団結に由来するが、『演義』の虚構である「桃園の誓い」にちなんで劉備・関羽・張飛に趙雲を加えて、「四兄弟」を祖先祭祀の対象とした擬制的兄弟関係で成立する四姓連合団体となっている[115]。
配祀として祀る祠廟
- (6) 成都武侯祠
- (6) 三義廟廟内
- (7) 北投行天宮
- (8) 三峽行修宮
- (9) 台湾大溪劉備廟
かつて存在した祠廟
評価
同時代の評価

劉備が皇帝に即位した直後の詔勅では、張飛の事を古代の召虎に喩えて、その武勇を賞讃している。また、魏の曹操の参謀であった程昱らから「張飛の勇猛さは関羽に次ぐ」、「1人で1万の兵に匹敵する」、郭嘉も同様に「張飛・関羽は共に1万の兵に匹敵する」、「劉備の為に死を以て働いている」[120][121]、董昭は「関羽、張飛は劉備の羽翼であり恐れるべきである」[122]、また劉曄にも「関羽と張飛の武勇は三軍の筆頭である」と評され[123]、呉の周瑜からも「張飛と関羽を従えれば大事業も成せる」と評されるなど[29][124]、その武勇は当時から天下に広く評価されていた。
しかし、張飛は士大夫と呼ばれる知識人層には敬意をもって応対したものの、身分の低い者、兵卒などには暴虐であった。多すぎる死刑の数と、いつも兵士を鞭打っている上にその当人を側に仕えさせていることを、劉備からは常々注意されていた。しかし張飛は改めることができず、ついに死に直結する事態を招くこととなった[125]。
『三国志』を著した陳寿は、巻36「関張馬黄趙伝」の「評」に、張飛と関羽の人物評を併せて載せ、このように括っている。
陳舜臣はこれを、関羽も張飛も、共に低い身分から士大夫に出世したが、関羽の場合は今や同じ身分となった士大夫に対しての傲慢な振る舞いとなり、張飛の場合は士大夫に出世したことを喜んで同じ身分の者には敬意を払ったが、下の者に対して傲慢になるという正反対の行動になったと解釈している[54]。
追封と栄誉
- 蜀漢・景耀3年(260年)、蜀漢建国の功臣に追諡が行われ、張飛には「桓侯」が贈られた。「桓」は「疆土を拓き遠方を鎮める。克く敬み民に勤しむ。領土を併せ諸国を兼る」といった意味を持つ[128]。
- 唐・史館が選んだ中国史上六十四名将に関羽と共に選ばれている(武廟六十四将)。
- 前蜀・天漢元年(917年)前蜀は国号を『漢』に改め、正月、張飛は「霊応王」に封じられた[129]。
- 元・順帝の至元6年(1340年)には、張飛はさらに「武義忠顕英烈霊恵助順王」に加封された[130]。
- 清・嘉慶帝は、張飛の祠墓のひとつである『閬中張桓侯祠』を「四川省春秋祀典」に組み込み、張飛は公式に祭祀される大神となった[131]。
個人の評価
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- (西晋)張輔:「張飛・関羽は、みな人傑である」[132]
- 葛洪:「皆が勇力がずば抜けている者を、上将の器であると言う。治乱をよく聞き知る者を、三九の才であると言う。しかし、張飛や関羽は万人敵であったが、みな首を喪い主君を辱め、しかるべきでない場所で首を差し出した」[133]
- (東晋)常璩:「初め、張飛の勇猛さは三軍に冠し、関羽と共に万人敵と称された。羽は小人をよく待遇したが士大夫には驕り、飛は君子を愛し敬ったが小人を顧みなかった。これこそが皆、敗れた所以である」[134]
- (唐)王勃:「先主(劉備)の寛仁にして衆を得たこと、張飛・関羽が万人敵であったこと、諸葛孔明が管仲・楽毅に比すべき傑物であったこと。この三者が力を合わせれば、天下を取ることも可能であっただろう」[135]
- 劉知幾:「関・張は傲誕をもって将軍とし、桑弘羊・霍光は満盈をもって職に居る」[136]
- 李徳裕:「蜀の先主は、関羽・張飛と寝起きを共にしたが、大勢の人の集まる場所では、彼らは終日そばに侍立していた。皆、この道を用いたからこそ、成功を収めることができたのだ。そもそも英傑を御し、猛将を使うのは、道徳を身につけた人物と会い、方正な士と交わるのとは違う。煩雑な礼儀で外見を飾り、浮ついた言葉で繕ってはならない。胸襟を大きく開き、肝肺を見せるべきである。気迫でその勇猛さを畏縮させ、恩愛でその心を結びつけるのだ。たとえ裸足で座って召し寄せたとしても、粗略とはならない。安禄山は、夷狄(異民族)の中の狡猾な者であって、将門の英豪や、在野の奇傑ではなく、その戦闘の気概、撃刺の才は、関・張からは遥かに遠い」[137]
- 殷堯藩:「威名は万古に垂れ、勇力は当時に冠した。回顧すれば三分の国、誰人が黍離を賦したことか」[138]
- 杜甫:「誰が関羽・張飛と並び称されるだろうか。功績は耿弇・鄧禹の功臣に臨る。天賦の才能が小さくなく、得た士との契りに比類はなかった」[139]
- 李亨:「張飛は万人敵であり、卻縠は三軍の将帥である」[140]
- 趙蕤:(虞世南は言う)あの孔明(諸葛亮)は、時代に命じられた稀代の奇才であり、伊尹や呂尚(太公望)の匹敵者であった。(中略)もし、彼を曹公(曹操)と場所を入れ替えることができたなら、その長計を存分に発揮させ、関羽・張飛の武勇をほしいままにし、諸葛の文才を尽くしたならば、覇王の業は成し遂げられたであろう」[141]
- 張説:「思斉は忠義深く勇壮であり、非凡な才能を持つ。これを古の人物に求めるならば、張飛、許褚らであろう」[142]
- (新羅)崔致遠:「いわゆる非凡な人物が存在してこそ、その後に非凡な事績が達成されるのである。絳侯(周勃)や灌嬰もまた一時代の傑物であり、関羽・張飛は代々の功績による貴族ではないにもかかわらず、その姓名を金鼎や玉鍾に彫り、その肖像を雲台や煙閣に飾っている。永久にその美点を尽くすならば、誰がその名誉を先に争うことができようか」[143]
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- (北宋)徐鉉:「唐の王室は崩壊し離散し、諸侯が競い合った。呉武王は春秋五覇の桓公・文公のような挙兵を行い、我が先君は関羽・張飛の役割を実践した。敵を打ち砕き、領土を攻略し、向かうところ敵対する者はいなかった。功績は当時の世にもたらされ、慶事は後世に鐘まった」[144]
- 孔平仲:「狄青、字は漢臣。李元昊が謀反を起こした際、たびたび軍を率いて出陣した。四年間で小規模・大規模を合わせて二十五回の戦闘を行い、流れ矢に当たることは八回に及んだ。人々は彼を「狄天使」と呼んだ。皇帝は彼の態度を見て、「朕の関羽・張飛である」と述べた」[145]
- 曾鞏:「侯(張飛)は智謀と勇気をもって将軍となり、万人敵と称された。蜀建国の初期に、魏将の張郃とこの地で対峙し、見事に敵軍を打ち破り、この土地を安定させた。その功績は人々に施されたものと言えよう。彼が死去した後も、また恩沢をもってこれを授ける。すなわち、彼が閬中の人々によって祭祀され廃れないのは、どうして当然ではないだろうか」[146]
- (南宋)岳飛:「一死など取るに足らない。後世の書物に岳飛の名があることを知らしめ、関・張ら輩の不朽の功烈に我も連なることを望むのみ」[147]
- 陳著:「厦は傾き木は支えにならず、鼎は重く足が先に折れる。関羽や張飛も天寿を全うせず、儀秦や秦開もまた舌を失う」[148]
- 楊万里:「威が行き過ぎれば離反を招く。張飛がこれである。強が行き過ぎれば驕となる。李光弼がこれである」[149]
- 徐夢莘:「張仲宝は字を子賢といい、膂力があり、当時の人は彼を小張飛子と呼んだ」[150]
- 賈似道:「勝負どころでの関・張の勇猛さを知るべし、頭は小さく牙は長く、体は金である」[151]
- 陸游:「顔良や文醜を知って何ほどの益があるだろうか。関羽や張飛の死は痛ましい。同じく人中の驍将と称されながらも、太山は一筋の毛先にも及ばない」[152]
- 葉適:「耿豪は凶暴で粗野なため採用するには足りないが、関・張と比べれば、その差はまたわずかなものである」[153]
- 楼鑰:「荊門に古跡多し。義勇の士は教法を服習し、利兵を持して以て勇を賈う。高陽の長阪を望むに、其れ亦た張益徳の矛を横たえ敵を拒ぎしを慕う者あらんや!」[154]
- 員興宗:「我が故郷より遣わした騎馬兵は、斥候騎兵にすぎない。どうして誰でも彼でも関・張のようであろうか!」[155]
- 綦崇礼:「頗牧や牧奢の才をもってし、関羽や張飛の勇をもってし、全ての将を率いて、ただ一方の殿に立ち、激戦を繰り広げれば、大敵は殲滅されるであろう。険阻な地を占拠し堅固に守れば、厳軍も犯すことはできない」[156]
- 李廌:「英雄を並べれば、関・張はその武を奮い、俊良を登用すれば、龐統や蒋琬はその職をよく務める」[157]
- 黄履翁:「古の烈士の才略といえば、向寵、柳渾、蔡道貴、鮑昭である。あるいは軍事に明るく、敵を万里の外から見抜き、あるいは勇猛さが関・張に比し、あるいは太原での治績が顕著である」[158]
- 汪藻:「重囲を破り勝利を決するにあたっては、張飛や関羽には万人の敵があった」[159]
- 劉克庄:「骨は既に黄泉の下に朽ちたれど、伝は猶お青史の中に列なる。猛樸は時来たりて宰相となり、関・張は運去りて英雄となる」[160]
- 陳元靚:「漢がその天下を失うと、三国が鼎のように並び立った。昭烈(劉備)を助けたのは、実に車騎(張飛)である。万人に敵する、兵は九地を行く。この雄材は覇王の器である」[161]
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- (元)郝経:「関羽と張飛は昭烈と血を啜って義をもって立ち上がり、早くから君臣の分を定め、漢室の回復を期し、百度折れながらも王業を興した。唸るさまは二虎が風に嘯き、龍に従うがごとく、張飛がこれを挟み、雄猛さは一世を震わせ、「万人敵」と号された。関羽は曹操に報恩の書を送り去り、張飛は目を怒らせ矛を横たえて曹操と決した。その義烈は天に届き、漢はこのためにも滅びなかった」[162]
- 祖無択:「蜀の諸将の中で、ただ張飛が最も雄し」[163]
- (明)蕭常:「関羽や張飛は万人の敵たる勇猛さには富んでいたが、その行いを慎重に探ることを知らなかった。彼らは皆、国士としての風格を持っていたが、しかし羽は剛情で驕り、飛は暴虐で恩に乏しかった。これこそが彼らが敗れた所以である」[164]
- 馮夢竜:「厳顔を釈放し、馬超を説得した[注釈 14]のは、すべて細心な作用である。後世、張飛を粗暴な人物と見なすのは、大いに間違いである!」[165]
- (清)趙翼:「漢以後、勇者を称える者は必ず関・張を推す」[166]
- (民国)盧弼 (中華民国):「張飛が固山に駐屯した際、曹洪が呉蘭を破り、張飛は退却した。これは、飛は勇猛とはいえ、時として強敵に敗れることもあったということである」[167]
創作上の張飛

明代に成立した『笑府』にも周倉同様に登場するなど、他の三国時代の人物に対し、より庶民に愛される存在として伝承されてきた。張飛が督郵を鞭打つ場面と長坂橋で曹操軍の前に仁王立ちする場面は、京劇などで特に人気が高く、大向こう受けするという[168]。以降『演義』を下敷きにした各種創作では、こうしたコミカルさも取り入れた好漢として活躍している[169]。
三国志平話
『三国志平話』(以下、『平話』)は『演義』の基になった白話小説。物語は、民間の色彩が色濃く粗削りで、長坂坡の戦いでは「張飛が雷のような大声で一喝すると、橋が崩壊し、曹操軍は三十里も退却した[170]」と描かれるように、荒唐無稽な内容となっている[171][172]。上巻にて、張飛が門前に立っていたところ、見慣れない一人の男(関羽)に声をかけるところから始まり、「名は張飛、字は翼徳といい、燕の涿郡范陽の人である。その容貌は、豹の頭にどんぐりまなこ、燕の顎に虎の鬚、身長は九尺を超え、その声は大きな鐘のように響き渡った。家は裕福な大金持ちである」と描写される[173][174]。
容貌の「豹頭環眼,燕頷虎鬚」は、『水滸伝』の林冲にも見え、民衆が好む豪傑の面構えの決まり文句として宋代には定着していたと推測され、『演義』の張飛にもこの表現は踏襲されている[175]。中野美代子は、唐代の李商隠の『驕児詩』の一節「あるいは張飛のヒゲをあざけり、あるいは鄧艾の吃を笑う」[176](李商隠の息子が客人のヒゲを見て「張飛のヒゲのよう」だと面白がったというエピソード)に注目し、正史には張飛の容貌に関しての記述は一切ないことから、当時、雑劇などで張飛役が「虎鬚」をつけて演じていたのを李商隠の息子が目撃したものと推測している[177]。こうした張飛の容貌は、8世紀ごろから中国の民衆間で急激に人気の広まった鍾馗、または明王像のイメージが共に人気のあった張飛の外見に取り入れられたものと考えられ、また中野は、関羽が長く美しいヒゲを持ち、静的な神格化を遂げたことに対しての、動的な「対比表現」であることも指摘している[178]。
『平話』は当時の民衆における張飛への親愛の情が色濃く反映されており、劉備を「徳公」、「玄徳」と呼び、関羽を「関公」と呼ぶが、張飛は親しみやすく「飛」と呼ばれ、他の五虎大将軍が張飛の引き立て役になっていることからも[179]、『平話』の主人公は張飛である[180]。
三国志演義
『演義』は『平話』や元雑劇、民間伝承などを基に、元末明初頃に羅貫中によって書かれたとされる。
演義の設定

『演義』の刊本にはさまざまな種類があり、黄正甫本『三国志伝』と毛宗崗本(毛本:毛宗崗が校訂した、最も普及した演義の刊本)『三国演義』では字は翼徳(よくとく)、嘉靖本『三国志通俗演義』では字は益徳と記される。五虎大将軍の一人と位置付けられ、「身長八尺(約185cm)、豹の頭にどんぐりまなこ、燕の顎に虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のよう[175]」と表される容貌に、一丈八尺の鋼矛「蛇矛(だぼう)」を自在に振るって戦場を縦横無尽に駆ける武勇を誇る武将として描かれ、家柄は「肉屋」と設定されている。
「豹頭環眼,燕頷虎鬚」の形容は『平話』を踏襲しているものの、体躯の描写は「九尺余り」から「八尺」へと縮小され、また、その活躍も荒唐無稽な逸話から史実に即した内容へと整理・修正されたことから[181][182]、『演義』の張飛は実質下方修正を受けたといえる[179]。これは『演義』が諸葛亮を主人公に据えたことへの影響とみられ[181]、中国において、優れた英雄のシンボルとされる「八尺」という長身は、正史が記す諸葛亮の背丈でもあり、羅貫中が張飛の身長を縮めたのは、体格を単なる外見ではなく「人格の一部」と捉えていたためと推測される[183]。そこには儒教的秩序を重んじる意図も関わっており、諸葛亮や関羽の忠義を神格化し、知識人(エリート)層の好みに合わせた『演義』の描写において、庶民に絶大な人気を誇った粗野な「暴れん坊・張飛」は主役の座を追われ、相対的に卑小化されるに至った[184][185][186]。しかし、中国ではその後も依然として張飛人気は高い[187]。
また、元々身分の高かった劉備が洗練された書面語で話すのに対し張飛は乱暴な口語を使うが、これは出身地が北宋時代以降、騎馬民族のモンゴル族根拠地となった(燕雲十六州)ことがあり、「漢児言語」という一種のピジン語が話されていたことから、その影響ではないかという研究がある[注釈 15]。このため、日本語訳では張飛の言葉はべらんめえ調の江戸方言などで訳されることが多い[188]。
演義の事績

後漢末、黄巾の乱が起こり、朝廷が義勇兵を募ったところ、劉備・関羽・張飛が偶然出会い、酒場で意気投合する。そして張飛の家の桃園で義兄弟の契りを結び、三兄弟になるところから張飛の物語が始まる[189]。
『演義』における張飛は、劉備を高潔な君子としてアピールするために、粗暴な役回りを押しつけられている部分が多い。例えば、黄巾の乱の後、劉備が査察にきた郡の督郵(監察官の職)に面会を断られ鞭打ったことがあるが、『演義』では、聖人君子である劉備像を壊さないために、劉備に賄賂を要求した督郵に腹を立てた張飛が暴行を加えたことにされている[186]。
張飛は一騎討ちの名手であり、呂布とも三たび渡り合い、関羽と一騎討ちで互角に戦った紀霊を討ち取り、曹操軍屈指の武勇を持つ猛将である許褚に一騎討ちで勝利している。関羽は曹操に「我が弟、張翼徳の武勇は拙者以上でごさる」と語っており、呂布も泥酔して力を尽くせない張飛に対し、それでも剛勇さをよく知っていたため、むやみに近付こうとしなかった。
若い頃は、戦場では蛮勇を振るうものの戦の後の宴席では酒に任せて暴力を振るうために、部下達に信頼されていない情景が描かれている。極めつきは、劉備が朝廷の命に従って袁術へ軍勢を出した時、その留守役として下邳を守っていた際に起こった事件で、泥酔した隙をつかれ、呂布とその軍師の陳宮の計略に引っ掛かり、部下に反乱され、主君である劉備の妻子を城諸共に奪われ、曹操の下に身一つで転がり込む原因を作っている。その一方で劉備達同様子供や老人のように力を持たない民衆に対しては優しく接するなど、涙もろく義理人情に厚い人物としても描かれている。
呂布滅亡後、劉備が曹操と不仲になると、徐州に攻め入ってきた曹操部下の劉岱と合戦をする前に、張飛軍は兵の士気を上げるために酒盛りをするが、途中で張飛が暴れ部下に暴行するという策を実行している。このことで部下が劉岱の下へ走って逃げ、張飛軍の内情を暴露させることになる。その情報を信用し攻めてきた劉岱軍を攻撃し、劉岱を捕らえている。
曹操に敗北して劉備らは散り散りになると、張飛は山賊にまで成り下がり、劉備の下に戻ろうと合流を望む関羽を、曹操に降った裏切り者呼ばわりして襲いかかるなど、血の気が多く、短慮な所を見せている。そののち両者は和解し、義兄弟は古城で無事に再会した。
劉備が諸葛亮を迎えた時には、劉備が自分と彼を「水と魚のようなもの」と例えたことに嫉妬を覚え、後に諸葛亮が采配を振ることになった時には、関羽と共に反発している。しかし、博望坡の戦いで諸葛亮の采配が的中すると関張らはその鬼謀に心服し、以降信頼を寄せている。龐統が県令の職を怠けたときも、これに激怒して殺害しようとするが、見事な仕事ぶりを見せると感心し、無礼をすぐさま謝罪した。

益州入りの後には張郃を相手に智謀を巡らして、勝利を得る張飛の成長した姿が描かれている。しかし最後には、義兄弟である関羽を失ったことで部下に対して当たり散らすことが多くなり、その結果破滅するという悲劇的な末路を描いた所で、『演義』は「張飛」という人物を締めくくっている。
花関索伝
関羽の架空の息子・関索を主人公とした『新編全相説唱足花関索出身伝 前集』(花関索伝)に、青口桃源洞の子牙廟で桃園の誓いの際、関羽と張飛は後のために互いの家族を殺そうということになるが、張飛は関平を供とし、胡金定(関羽の夫人、関索の母)を殺さず逃がしている[190][191]。
笑府
明末期の笑話集『笑府』に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。
ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやった。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「フェイです」と答える。さらに訊ねたところ、「私は楊貴妃(ヤン・グイフェイ)です。馬嵬で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。
これを聞いて羨んだ隣の男が野原を探し回って、野ざらしになった骸骨を見つけ供養したところ、その晩やはり戸を叩く者があった。「誰だ」と聞くと「フェイです」と答える。「楊貴妃かい」と聞くと「俺は張飛(ヂャン・フェイ)だ」という答え。仰天して「張将軍が我が家に何ゆえのお越しで」と訪ねると、張飛曰く「俺は閬中で殺されてから、葬られることなく野ざらしになっておったのをあんたに供養してもらった。その礼に夜を共にさせてくれい」 — 『笑府』巻八「学様」[192]
民間伝承
柴堆三国

『歸田瑣記』(清・梁章鉅)「關西故事」に、肉屋の張飛が肉を冷やすための重しの石を関羽が持ち上げたという、「張飛井戸」[193][194](桃園の誓いにつながる伝説)が記述されている[195][196]。
以下は「張飛井戸」の伝承[注釈 16]。
琢州城外の桃荘に代々住んだという張飛は、肉屋を商っていた。豪傑との交わりを好む張飛は、ひと塊りの肉を古井戸に入れて千斤の巨石でふたをし、その横の壁に「千斤石を持ち上げることができれば、中の肉をただで提供する」と書いていた。ある日、赤ら顔の男・関羽が通りかかって壁の文字を読むと、簡単にふたを開けて中の肉を持って行ってしまった。張飛はそれを聞くと関羽を追いかけ、穀物市場で関羽が売っていた緑豆をつかんでこなごなにしてみせた。関羽は大いに怒ると、ふたりは言い争いから殴り合いになった。そこへ劉備が現れ二人の腕をつかみ、「男たるもの、小事にこだわらず国のために力を使うべきだ」と仲裁した。二人は大いに感じ入って拱手し、名乗り合った。これが劉備、関羽、張飛の出会いである。 — 「張飛井戸」[198][197]
この伝承は、「一龍分二虎」(一龍が二虎を分ける)の故事でも知られる[197]。