崔弘礼

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崔 弘礼(さい こうれい、767年 - 831年)は、唐代官僚は従周。本貫深州安平県[1][2]

弘礼は容貌魁偉にして豪放磊落で、大志を抱いていた。進士に及第して、節度使の補佐役を歴任し、侍御史に進んだ[1][2]

元和年間、呂元膺が東都留守となると、弘礼はその下で従事をつとめた。元和9年(814年)、淮西節度使呉少陽が死去し、その子の呉元済が挙兵すると、淄青節度使李師道が呉元済と結んで、洛陽を襲撃しようと図った。弘礼は呂元膺のために計略を立て、洛陽の守りを固めたため、洛陽は無事に済んだ。弘礼は汾州刺史棣州刺史を歴任した。魏博節度使田弘正が副使を求めると、弘礼は衛州刺史に任じられ、魏博節度副使をつとめた。鄭州刺史に転じた[1][2]

長慶元年(821年)、幽州節度使劉総が入朝し、張弘靖幽州に移駐すると、弘礼は検校左散騎常侍を加えられ、幽州盧龍軍節度副使とされた。赴任しないうちに、幽州と鎮州で兵乱が起こると、弘礼は絳州刺史に転じた。長慶2年(822年)、汴州の李絺が反乱を起こすと、弘礼は河南尹に任じられ、御史大夫を兼ね、東都畿汝州都防禦副使をつとめた。李絺の乱が鎮圧されると、弘礼は河陽三城懐州節度使に転じた。田1000頃を灌漑し、歳収8万斛を得た。数年後、検校戸部尚書華州刺史に任じられた。大和元年(827年)、天平軍節度使の烏重胤が死去すると、弘礼は代わって天平軍節度使となり、その日のうちに赴任した[1][3]

李同捷が反乱を起こすと、弘礼は李聴とともに李同捷を討った。弘礼は検校尚書左僕射を加えられた[4][5]。大和3年(829年)、東都留守となった[6]。大和4年(830年)4月、刑部尚書に転じた[7]。宮中への参内を求められたが、病のため赴けなかった[4]。10月、再び東都留守に任じられた。12月23日(831年1月10日)、死去した[8]。享年は64。司空の位を追贈された[4][5]

家族

脚注

伝記資料

参考文献

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