崔従
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幼くして父を失い、次兄の崔能とともに太原府の山林に寓居して、貧苦の中で学問した。貞元初年、進士に及第し、山南西道節度推官を初任とした。山南西道節度使の厳震に礼遇された。母が死去したため、崔従は辞職して喪に服した。喪が明けても召命に応じようとしなかった。長らくを経て、剣南西川節度使の韋皐が両路運糧使を置くと、崔従はその下で西山の運務を管掌した。のちに知邛州軍州事をつとめた。永貞元年(805年)、韋皐が死去すると、副使の劉闢が朝廷の命を聞かず、東川を併呑しようと図った。崔従は書簡で劉闢を諫めたので、劉闢は怒り、出兵して邛州を攻めたが、崔従は城に籠って劉闢に降らなかった。盧坦が宣州に赴任すると、崔従は召し出されて宣歙観察副使をつとめた[4][5]。
元和初年、崔従は長安に入朝して、吏部員外郎に累進した。元和9年(814年)、裴度が御史中丞となると、崔従は推挙されて右司郎中となり、侍御史・知御史台雑事を兼ねた。裴度が宰相となると、崔従は裴度に代わって御史中丞となり、権臣や恩幸を避けることなく弾劾した。給事中に転じた。数カ月後、陝州大都督府長史・陝虢都防禦観察使として出向し、御史中丞を兼ね、紫金魚袋を賜った。入朝して尚書右丞となった[6][7]。
元和13年(818年)、崔従は憲宗の命を受けて、鎮州の王承宗を安撫した。8月、興元尹・御史大夫・山南西道節度観察等使として出向した[6][7]。
長慶元年(821年)、崔従は召還されて尚書左丞に任じられた[8]。長慶2年(822年)、検校礼部尚書・鄜州刺史・鄜坊丹延節度使として出向した。長慶4年(824年)、入朝して吏部侍郎となり、ほどなく太常寺卿に転じた。宝暦2年(826年)、検校吏部尚書となり、東都留守をつとめた[9][7]。
大和3年(829年)、崔従は入朝して戸部尚書となった。李宗閔が政権を掌握すると、崔従は裴度や李徳裕と仲が良かったことから、李宗閔に憎まれた。検校尚書右僕射・太子賓客・分司東都となった。大和4年(830年)3月、検校尚書左僕射となり、揚州大都督府長史・淮南節度副大使・知節度事となり、御史大夫を兼ねた。大和6年(832年)10月、揚州で死去した。享年は72。司空の位を追贈された。諡は貞といった[9][10]。