崔安潜

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崔 安潜(さい あんせん、生年不詳 - 898年)は、唐代官僚軍人は進之[1][2]本貫斉州全節県[3][4]

大中3年(849年)、進士に及第した。咸通年間、江南西道観察使・戸部侍郎を歴任した。乾符3年(876年)、検校兵部尚書許州刺史忠武軍節度使として出向した。この年、王仙芝の反乱軍が河南に進入すると、安潜は兵を徴募して許州の境を守った。大将の張自勉に7000の兵を預けて宋州の援軍に派遣して南月城を奪回させた。曹州に駐屯する宋威が安潜の軍を全て麾下に組み込もうとしたが、宰相の鄭畋は兵4000を宋威に与え、残りは張自勉に返した[1][2]

乾符5年(878年)、安潜は成都尹・剣南西川節度使に転じ、前任の高駢の下で利を貪っていた者たちを粛清した。中和元年(881年)、黄巣長安を占領すると、安潜は僖宗に従って成都府に避難し、太子少師となった。中和2年(882年)、王鐸が諸道行営都統となると、安潜は副都統をつとめた。中和3年(883年)、長安が奪回されると、安潜は功により検校侍中を加えられた[1][5]

龍紀元年(889年)、平盧節度使王敬武が死去すると、安潜が代わって平盧節度使に任じられた。しかし王敬武の子の王師範が命を拒んだ。大順2年(891年)、安潜は棣州刺史の張蟾に州兵を出させて青州を攻撃したが、王師範に敗れた。朝廷が王師範を平盧節度使に任じると。安潜は長安に召還され、太子太師を加えられた[6][7]乾寧5年5月30日898年6月22日)、華州で死去した。開府儀同三司太尉の位を追贈された[8]は貞孝といった[9][7]

家族

  • 高祖父:崔融
  • 曾祖父:崔翹(礼部尚書・東都留守)
  • 祖父:崔異(渠州刺史)
  • 父:崔従[10]
  • 兄:崔慎由
  • 子:崔柅(後梁の工部尚書)
  • 子:崔艤(右拾遺)[9]
  • 子:崔伽護

脚注

伝記資料

参考文献

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