崔慎由
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大和初年、進士に及第し、さらに賢良方正科に登第した。聡明俊敏で記憶力が強く、器量は端正温厚で、父の風格があった[5][2]。秘書省正字を初任とした。太常寺協律郎として試用され、剣南東川節度推官として出された。浙江東道観察判官に転じた。大理寺評事として試用され、殿中侍御史を兼ねた。義成軍節度判官として出向した。大中初年、再び御史台に入って監察御史となり、殿中侍御史に転じ、集賢院学士を兼ねた。集賢院学士のまま戸部員外郎となった。吏部員外郎に転じ、考功員外郎・知制誥となった。職方郎中・知制誥となり、翰林学士をつとめた。中書舎人に任じられた。潭州刺史となり、御史中丞を兼ね、湖南都団練観察等使をつとめた。入朝して刑部侍郎に進み、兵部侍郎に転じた。検校礼部尚書となり、御史大夫を兼ね、浙江西道都団練観察等使として出向した。入朝して吏部侍郎となった。戸部侍郎・判戸部事をつとめた。太中大夫・工部尚書・上柱国となり、紫金魚袋を賜った[6]。
大中10年(856年)、慎由は本官のまま同中書門下平章事(宰相)となり、集賢院大学士を兼ねた。監修国史を加えられ、礼部尚書を兼ねた。蕭鄴と仲が悪く、蕭鄴が劉瑑を召し出すと、慎由は排斥された。大中12年(858年)2月、検校礼部尚書・梓州刺史・剣南東川節度使として出向し、御史大夫を兼ねた[7][8]。
咸通4年(863年)、華州刺史・潼関防禦・鎮国軍使に転じ、検校司空・河中尹・河中節度・晋絳慈隰観察等使を加えられた。入朝して吏部尚書となった。老病のため引退を願い出て、太子太保・分司東都となった[7][8]。咸通9年6月29日(868年7月22日)、洛陽県の履道里で死去した。享年は65[9]。司空の位を追贈された。諡は貞といった[8]。