崔梲

From Wikipedia, the free encyclopedia

崔 梲(さい せつ、876年 - 943年)は、五代十国時代官僚は子文。本貫深州安平県[1][2]

若くして学問を好んだ。後梁貞明3年(917年)、進士甲科に及第し、開封王瓚の従事となった。父の崔涿が病にかかると、崔梲は衣の帯を解くこともなく、近侍して世話をした。賓客がやってくると、崔梲は薬を進めても父が飲まないことを嘆いた。父が死去すると、崔梲は哀毀すること礼の規定を超えていた。後唐明宗のとき、監察御史に任じられたが、召命に応じなかった。再び詔命が下り、監察御史の任に列した。都官郎中翰林学士に累進した[3][4]応順元年(934年)、工部侍郎に任じられた[5]清泰2年(935年)、戸部侍郎に転じた[6]

後晋天福2年(937年)、崔梲は兵部侍郎・翰林学士承旨・知礼部貢挙となった[7]。醜行のあった孔英を進士に及第させて、当時の世論に非難された[8][9]。天福4年(939年)4月、兵部侍郎のまま、判太常寺事を兼ねた[10]。5月、尚書左丞に任じられた[11]。11月、太常寺卿に転じた[12]。天福7年(942年)、中風のため太子賓客・分司西都に転じた[13]。天福8年(943年)、死去した。享年は68[8]

家族

  • 曾祖父:崔元受(直史館)
  • 祖父:崔銖(濮州刺史)
  • 父:崔涿(刑部郎中)[1]
  • 兄:崔棆(仏教を好んで、滑州に閑居した)[14]

脚注

伝記資料

参考文献

Related Articles

Wikiwand AI