崔梲
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若くして学問を好んだ。後梁の貞明3年(917年)、進士甲科に及第し、開封尹王瓚の従事となった。父の崔涿が病にかかると、崔梲は衣の帯を解くこともなく、近侍して世話をした。賓客がやってくると、崔梲は薬を進めても父が飲まないことを嘆いた。父が死去すると、崔梲は哀毀すること礼の規定を超えていた。後唐の明宗のとき、監察御史に任じられたが、召命に応じなかった。再び詔命が下り、監察御史の任に列した。都官郎中・翰林学士に累進した[3][4]。応順元年(934年)、工部侍郎に任じられた[5]。清泰2年(935年)、戸部侍郎に転じた[6]。
後晋の天福2年(937年)、崔梲は兵部侍郎・翰林学士承旨・知礼部貢挙となった[7]。醜行のあった孔英を進士に及第させて、当時の世論に非難された[8][9]。天福4年(939年)4月、兵部侍郎のまま、判太常寺事を兼ねた[10]。5月、尚書左丞に任じられた[11]。11月、太常寺卿に転じた[12]。天福7年(942年)、中風のため太子賓客・分司西都に転じた[13]。天福8年(943年)、死去した。享年は68[8]。