崔民幹
From Wikipedia, the free encyclopedia
崔民幹は隋の末年には醴泉県の県令に在任しており、李淵(のちの唐の高祖)が兵を挙げ関中に進軍した後に、崔民幹は李淵に醴泉県を献じて投降し、丞相府主簿に任じられた。 武徳元年6月(618年6月28日)、李淵は隋の恭帝から禅譲を受け、唐を建国すると、崔民幹は黄門侍郎に任じられた[3][4]。 武徳元年10月(618年11月1日)、高祖(李淵)は詔を右翊衛大將軍・淮安王李神通に下して山東道安撫大使となし、山東各方面の諸勢力にあたらせた。この時崔民幹は安撫副使となった[5]。
武徳2年(619年)閏2月、李神通は宇文化及の籠城する聊城に進攻したが、宇文化及は軍中の兵糧不足が原因で投降することを請うたが、李神通はこれを受け入れなかった。 崔民幹は李神通に宇文化及の投降を受け入れるように進言したが、李神通は「兵士たちは長い間屋外にさらされてきた。敵の計略が尽き、兵糧が枯渇した今、わが軍は間もなく勝利を収めるだろう。聊城を占領して国威を示し、兵士たちの働きに財産を以て報いるべきだ。 もし降伏すれば、兵への褒美はどうなるのか。」と言った。答えて崔民幹は「今、竇建徳が近づいており、宇文化及はいまだ平定しきれていない。 もし攻めずに城を奪えば、大成功を収めることになるでしょう。 今、われわれは富と財産に貪欲であり、われわれの軍隊は必ず失敗するだろう。」と言った。 李神通は激怒し、崔民幹を軍に幽閉した[6][7][8]。
唐の第2代皇帝である太宗李世民は、即位後、申国公高士廉、黄門侍郎韋挺、礼部侍郎令狐徳棻、中書侍郎岑文本らに氏族志の編纂を命じ、貞観12年(638年)に氏族志の編集は完了したが、その際、崔民幹は家格第一等に挙げられていたが、太宗はこれを見て非常に不満に感じ、命を下して再度編纂して改めさせた。これは唐の官品評定の標準となるものであり、家格の首位には皇族李氏が、それに次いで外戚が、そして崔民幹が降格され第三等となった[9][10][11][12]。
崔民幹は貞観6年(632年)から7年(633年)にかけて宋州刺史に任じされ、その後は幽州刺史に転任し、博陵郡開国公に封じられ[2]、刺史在任中に配下に追慕の念を抱かせたという[13]。 崔民幹の死後、朝廷は幽州都督、上柱国の位を追贈し、諡は元とし、永徽元年2月7日(650年4月3日)、雍州万年県の義善郷少陵原に葬られた[2]。