嵯峨本
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嵯峨本、光悦本、角倉本の違い
16世紀末にキリシタン版[5]や朝鮮半島を通じて活版印刷術が伝わった[6]ことに刺激を受けて、日本でも豊臣秀吉や天皇による活字開版[7]、寺院による経典の活字開版が盛んになった[8]。これらの影響をこうむった民間でも開版が行われ坊刻本と総称されるが[9]、その最初期のものの一つが嵯峨本である[10]。当時の京都には富を蓄積した商人、五山版以来の職人[11]、読者層が存在していたことが嵯峨本が生まれた背景である。藤原惺窩ら儒学者とも交友を持った角倉素庵(了以の子)が出版業を思い立ち、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力で出版したものが嵯峨本といわれる古活字本である。
川瀬一馬は『日本書誌学用語辞典』で、嵯峨本、光悦本、角倉本の違いについて次のように述べている。
光悦本は、
慶長年間、本阿弥光悦が、具引き雲母摺(ぐびきうんもずり)等の美術工芸的な意匠を凝らした料紙を用い、自ずから版下を筆写し て木版印刷を行なった版本をいう。慶長13年刊絵入伊勢物語が最初で、慶長後半に盛んに行なわれた。大部分は活字印刷であるが、新古今和歌集月詠歌巻と三十六歌仙,二 十四孝は整版である。光悦本を嵯峨本ともいうが、「嵯峨本」は光悦より広義となるので、両者を別称した方がよい と思う—川瀬一馬、光悦本、日本書誌学用語辞典[12]
嵯峨本・角倉本については、
光悦本と同意にも用いるが、嵯峨本は光悦自身直接版下などを執筆し、装訂の意匠を凝らしたもの、及びその影響のもとに作られた類品をも含み、広義となるので、別称とした方がよいと考える。これを又「角倉本(すみのくらぼん)」とも称するが、それは角倉了以(素庵)が刊行に関与した(恐らく は出資者)であろうと推察しての所説である。なお素庵もまた光悦風の手蹟を有するので、嵯峨本の版下をも書いたのではなかろうかとも推測してのことである。角倉一族は恐 らく慶長年間の活字印刷に寄与する処があったと思われ、 史記の活字版の一種その他、その仲間の出版かと推せられ るものがある。京都の嵯峨は、角倉の居住地である—川瀬一馬、嵯峨本、日本書誌学用語辞典[13]
としている。
嵯峨本13部
内容は古典文学が主で、川瀬一馬は次の13部を嵯峨本と定義した[14][注釈 1]。
『伊勢物語』[18][2]『伊勢物語聞書(肖聞抄)』[19]『源氏小鏡』『撰集抄』『徒然草』[20][21]『方丈記』[2]のほか、『観世流謡本』『久世舞三十曲本』『久世舞三十六曲本』『新古今和歌集抄月詠歌集』(整版)『百人一首』『三十六歌仙』(整版)[22]『二十四孝』(整版)[23]が残されている[2]。
なお、『源氏物語』の嵯峨本と伝えられるものは、嵯峨本とするには疑問があるため、『伝嵯峨本源氏物語』と呼ばれている。
