川又米利

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国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都調布市緑ケ丘
生年月日 (1960-08-04) 1960年8月4日(65歳)
身長
体重
179 cm
79 kg
川又 米利
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都調布市緑ケ丘
生年月日 (1960-08-04) 1960年8月4日(65歳)
身長
体重
179 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 一塁手外野手
プロ入り 1978年 ドラフト外
初出場 1979年5月6日
最終出場 1997年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 中日ドラゴンズ (2002 - 2004)
  • NAGOYA23
  • 中日ドラゴンズ (2012 - 2013)

川又 米利(かわまた よねとし、1960年8月4日 - )は、東京都世田谷区三宿生まれ、調布市[1]出身の元プロ野球選手内野手外野手)。名古屋市に本社を置く芸能事務所セントラルジャパンに所属している。

東京都世田谷区三宿で生まれ3歳の時に調布市へ移る[1]。父親は木製家具の職人[2]。小学5年から調布リトルリーグに入りエースとして活躍する[1][3]

1976年早稲田実業高入学。1年生時から左翼手一塁手として活躍。弓田鋭彦(早大日本石油)、谷田部和彦(早大-拓銀)の両エースを擁し、同1976年秋の明治神宮大会に出場。決勝で大田高を降し優勝を飾る。その後、通算4回の甲子園大会に出場。高校2年時の1977年春の選抜では準々決勝に進むが、智弁学園山口哲治に抑えられ敗退[4]。同年夏の選手権も準々決勝で今治西高に1-11で大敗[5]。しかし秋の青森国体では、決勝で東洋大姫路高松本正志を打ち崩し優勝を果たす。

1978年は同期の山岡靖(早大-東京ガス)がエースとなり、春の選抜に出場。2回戦でこの大会に優勝した浜松商に惜敗[4]。しかし大会第4号の本塁打を放ち長距離打者として注目される。同年夏の選手権は1回戦で矢田万寿男のいた倉吉北高に2-3で敗れた。倉吉北の松本好行投手に得点の好機を含め川又が内野フライに二度抑えられチームも敗退した[5][6]。左の強打者ということから、先輩の王貞治になぞらえ「王二世」と騒がれた[6]1978年オフにドラフト外中日ドラゴンズに入団[1]。担当スカウトは高校の先輩である田村和夫[7]

1982年ウエスタン・リーグで首位打者を獲得する[1]も、一軍ではなかなか定着できなかった。

1985年には右翼手の定位置を獲得、初めて規定打席(21位、打率.290)に達する。シーズン中盤には谷沢健一の故障で一塁手としても出場した。尚この年より、外野のレギュラーだった田尾安志が中日から西武へ移籍。川又本人はこれが自分にとっての分岐点だったとし、これが無かったら「自分の人生はどうなっていたか、あの年(1985年)で終わっていたかも知れない」と語っている[8]

1986年は谷沢に代り一塁手に回り、その後も1989年まで右翼手、一塁手のレギュラーとして活躍。

1988年のリーグ優勝に貢献し、西武との日本シリーズは敗退するが、10打数3安打2打点1本塁打を記録し第2戦の3回裏には郭泰源から2ラン本塁打を放っている。しかし落合博満が一塁手に定着し、外人選手の入団もあって、その後は段々と出場機会を減らし、代打の切り札や外野の準レギュラーとして起用される。特に相性の良い巨人戦には勝負強さを発揮した。プロ野球歴代5位の代打本塁打16本の記録を持つ[1]

1997年、もう少し踏ん張って来年プロ20年目を迎えたいと思っていた矢先、球団から、戦力構想から外れたので来季の契約はしないと告げられる。「他球団に移ってもやれるのは1 - 2年程度、それよりはドラゴンズで終わった方がいい」と考えて引退を決断。当時、通算代打本塁打セ・リーグ記録更新がかかっており、本拠地最終戦(10月3日)終了後も自チームの全日程終了(10月6日、ビジターの対横浜戦)まで帯同したが、記録更新は叶わず引退[8]。なお、川又本人は一度もオールスターゲーム出場経験が無く、「それが後悔」と話している[8]

1998年から2001年まで、東海ラジオ日本テレビ中京テレビ中日スポーツ野球解説者を務める[1]

2002年に中日の二軍打撃コーチに就任[1]

2003年は一軍打撃コーチ。

2004年は二軍打撃コーチを務めた。

2005年から2011年まで、再び東海ラジオ(2008年まで)、中京テレビ、中日スポーツの解説者(東海テレビ制作のJ SPORTS STADIUMにも出演)。「間違いないですね」が口癖(東海ラジオのナイターオフ番組『ガッツナイタープラス』の2007年バージョンで、リスナーが考える「間違いないですね」にあった質問を募集し、質問の最後に川又本人の「間違いないですね」の肉声が使用される大喜利的要素を含む内容の不定期企画があった)。マスターズリーグの名古屋80D'sersの選手としても活躍している。

2007年名古屋市でクラブチーム「NAGOYA23」を結成し、総監督に就任。

2012年からは中日の二軍打撃コーチに就任、8年ぶりの現場復帰となった。

2013年10月4日に球団から来季の契約を結ばないことが発表された[9]

現在はDAZNの野球解説者、中日スポーツの野球評論家の傍ら、ドラゴンズベースボールアカデミーのコーチを務めている。また、バンテリンドーム ナゴヤ内のアリーナビュー・レストランにて不定期で試合解説を行っている。

人物

現役時代の川又の応援歌は、2014年まで中日のチャンステーマになっていた(原曲は「ぶっちぎりの青春」。歌詞は一部変更されている)。因みに初期の頃は「ウルトラマン」の曲を原曲としたもので、爆風スランプのヒット曲「Runner」を原曲としたものもあった。その曲は、広島の野村謙二郎の応援歌と重なったため、それを嫌った野村が変更を申し出たというエピソードもある。四作目の歌詞には「熱涙」という歌詞が使われ、川又の集大成を表すような歌詞となっている。

全歌詞はこちら 歴史に刻む一打を 一振りにかけろ 熱涙溢れてくるぜ 頼むぞ川又

守備に難があり、川又の守備位置にフライが上がるとぞっとすることから「スリラー」と言う別名をもらっていた。そのため、パ・リーグからDHのニーズがあり、度々トレードの申し込みがあった。また鈍足で打球判断も悪いため、ギリギリのランニングキャッチやダイビングキャッチも度々で“ファインプレー”を演出することも多く、このため現役時代は「足が速ければもっといい選手になれたのに」と言われ続けた。 特に1990年のシーズンは星野仙一監督の鉄拳制裁が話題になっていたが、珍プレーでその相方としてよく紹介された。ある試合で川又がライトフライを万歳で後逸して三塁打にしてしまい、星野が激昂しライトを交代させ、顔面蒼白のままベンチへ引き上げるシーン、別の試合では川又がチャンスで適時打を放ち、相手のエラーで2塁へ進めるチャンスが十分あったにもかかわらず1塁ベース上で味方ランナーのホームインに見とれてしまい、その走塁の怠慢さに星野が激怒しベンチ内の扇風機を破壊、その光景を1塁ベース上で見た川又は喜びから顔面蒼白になるシーンなどが代表的である。川又は星野と現役時代を共にしながら、第一次星野政権下で放出されなかった数少ない中日OBの一人である。

川又は、星野が亡くなった(2018年1月4日)後、ラジオ番組に出演し、怠慢な走塁に星野が激怒した場面のことについて触れている。川又は「ランナーがホームに帰ったかどうかを確認してしまったので、セカンドに進むのを怠った」と述懐し、星野はその怠慢なプレーに激怒して「ヨネ、何でセカンドに進まないんだ!!」とどやされたと話している。川又は「あの時は相手チームのベンチに行きたかったです。打った時はガッツポーズをしたけれど、星野さんにどやされて一瞬で興奮が冷めてしまいました」と当時を振り返っていた。

夫人はイラスト製作を趣味としており、雑誌「月刊ドラゴンズ」の誌上企画で川又がインタビューする中日選手の似顔絵を掲載している。

1997年に引退後(2002年~2004年までのコーチ時代を除く)中京テレビ東海ラジオ放送の解説を務めているが、川又は長嶋茂雄の大ファンで日本テレビの長嶋引退記念特別番組に観客の一人として出演していたほどである(引退した1974年当時中学生だった)。その映像が引退後初のレギュラー番組『ズームイン!!朝!』で取り上げられると「う~ん、中日にも優勝してほしいが…長嶋さんのことを考えると巨人にも優勝してほしい…」と発言。コンビを組んでいた中京テレビの佐藤啓アナは「何言ってるんですか!中日が優勝でしょ!」と慌てて指摘した。その後、MC福澤朗からの「長嶋さんに優勝させたいですね!?」という発言には「う~ん」と煮え切らない態度を取った(入団当時と引退当時の巨人監督は長嶋である)。
また、監督を退任し中日の臨時コーチを務めた長嶋が、川又の打撃フォームを見て「少年野球をしている子供たちが見習うべきフォーム」と絶賛、「ブック(教科書)」というニックネームを授けた。

飲酒するとたちまち赤くなるため、川又に酒を飲ませるなとよく指摘されていたらしい。引退後も鍋を囲み飲酒しながら対談をする収録などでは顔を真っ赤にしている。

井端弘和研ナオコに紹介したのは、川又である(『榊原郁恵のおしゃべりパーク歌うリクエスト』最終回より)。

ロックミュージシャン忌野清志郎と親交が深い。忌野が名古屋でライブを行う際には特別ゲストとして川又がステージに登場することが度々あった。その際、忌野は川又のことを歌った名古屋限定の曲を披露するパターンが多かった。

高校時代に出場した神宮球場の試合で、帝京高校石橋貴明から「オイ!川又」と野次られた経験がある(2009年11月19日放送・とんねるずのみなさんのおかげでした・「新・食わず嫌い王決定戦」より石橋談)。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1979 中日 4657472133001651002711101.277.382.340.722
1980 2525251300162000000051.120.120.240.360
1981 1114131300030000010031.231.286.231.516
1982 2426261401060010000050.154.154.231.385
1983 32574981610635140102600121.327.400.7141.114
1984 41363524200611000100110.114.139.171.310
1985 1224223624310527391654424425212506.290.380.456.836
1986 115403358419920191484230673210579.277.330.413.743
1987 1234203764095164161675762703760335.253.320.444.764
1988 1223813183089182612935321264550365.280.363.406.769
1989 1133242713377190410831321024030307.284.374.399.772
1990 9421216718411402611821423643343.246.385.365.750
1991 8316013020431115712910332410331.331.427.546.973
1992 8419516714451405741500022630222.269.364.443.807
1993 982592252353906802400322700358.236.315.356.671
1994 851331041228402381210022402154.269.409.365.774
1995 851601381232502431600112030151.232.327.312.639
1996 645845212101161200011210141.267.414.356.769
1997 484541093001270000410131.220.289.293.582
通算:19年 141533872897303771167127411843642313503439430843357.266.352.409.761
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号

  • 46 (1979年 - 1982年)
  • 23 (1983年 - 1997年)
  • 86 (2002年 - 2004年)
  • 74 (2012年 - 2013年)

記録

初記録
節目の記録
  • 1000試合出場:1992年7月5日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(宮城球場)、5回表に落合博満の代走として出場 ※史上304人目
その他の記録

関連情報

出演番組

脚注

関連項目

外部リンク

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