川成島藩
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前史
本郷家は、室町幕府に奉公衆として仕え、のちに徳川家康に招かれて江戸幕府草創の際に奏者番を務めた本郷信富の子孫にあたる[1][注釈 2]。本郷信富の孫の本郷勝吉は御使番などを務めて2300石まで加増され[1]、その子の本郷泰勝が弟に分知を行ったために知行高は2000石となった[4]。
『角川日本地名大辞典』によれば、延宝2年(1674年)に川成島村は本郷氏の知行地となる[5]。『寛政重修諸家譜』によれば、延宝2年(1674年)に家督を継いだ本郷久泰(泰勝の養子)が、宝永2年(1705年)に甲斐国八代郡の知行地を駿河国富士郡に移されたとある[4]。のちの泰固による立藩までおよそ150年にわたり、川成島は本郷家の知行地であった。
本郷家の当主の多くは、小姓や書院番などを務めた。久泰から数えて5代目にあたる本郷泰行は、徳川家治のもとで御側御用取次を務めるなど栄達した[6]。
本郷泰固
本郷泰固(泰行の孫)は、2000石の本郷家を継いで累進し、徳川家斉の側衆を務めた[7]。知行も天保13年(1842年)に1000石、弘化2年(1845年)に2000石、嘉永4年(1851年)に2000石をそれぞれ加増され、合計7000石となっていた[7]。
本郷泰固は、徳川慶喜の一橋家相続実現のために尽力し[7]、安政4年(1857年)に側衆から若年寄に昇進した[7]。この際、3000石の加増を受けて知行は1万石に達し、川成島藩が立藩した[7]。
しかし、泰固は安政5年(1858年)7月、泰固は「差控」を命じられ[7]、若年寄職を罷免された[8]。表向きの理由は職務怠慢であるが[8]、実際には一橋派と見られたための処分と見られ[7]、安政の大獄の一環とされる[9]。翌安政6年(1859年)10月、泰固は5000石を削減の上[7]、隠居・謹慎が命じられた[7]。これにより川成島藩は廃藩となった[8][7]。
後史
その後、桜田門外の変での井伊直弼の死を経て、万延元年(1860年)9月に泰固は謹慎処分を解かれている[7]。
泰固の子・本郷泰清は、幕府瓦解以後旧領地に在り、旧幕臣を受け入れて三椏(みつまた)の生産にあたった[2]。富士製紙の工場誘致に関わるなど、現在の富士市域における製紙業振興の一端を担ったとされる[2][注釈 3]。
