川辺本陣
From Wikipedia, the free encyclopedia
概要
参勤交代時の大名行列は何百人というのが普通で本陣と脇本陣だけで捌ききれるものではなく、特に川辺村の宿場は村の6割が旅館や茶店として繁盛するほど発展した[4]。
萩藩が1810年(文化7年)に参勤交代で川辺本陣に宿泊した際の人数841人に要した宿屋は95軒、黒田藩の1861年(万延元年)の参勤交代の際の人数は580人、比較的小藩の鍋島藩が1810年(文化7年)に参勤交代で宿泊した際の人数99人に要した宿屋は15軒であった[5]。
1729年(享保14年)4月に象が初めて日本に来た際には、川辺村に一泊したという記録もある[6]。また、伊能忠敬も日本地図作成のために全国を測量して山陽道を下る際、1809年(文化6年)8月24日に川辺本陣に宿泊した記録がある[7]。
当時高梁川には橋がなく、川の水位が上がるとしばしば逗留を余儀なくされたことから、川辺宿の町家の規模は矢掛本陣のある矢掛宿よりも大きかったのではないかと推測されている[7]。
川辺本陣
川辺本陣は難波氏邸宅である[5][注 2]。難波氏の生業は醤油屋であった[7]。
1978年に兵庫県豊岡市で発見された「川辺本陣間取り図」[8]によると、豪壮で広大さを誇る邸宅で[5]、規模は重要文化財の矢掛本陣とほぼ同じである[7]。平常使用する畳数は143畳という広さで、大名宿泊時には2階座敷や蔵座敷、「こしらえ座敷」も加えて200畳、間数も30近くになった[5]。
なお、萩藩6代藩主・毛利宗広が1737年(元文2年)の参勤交代で3月13日に川辺本陣に宿泊した際の宿賃は、「銀子(ぎんす)五枚 難波弥三兵衛」「金子(きんす)弐百疋 御本陣下宿」であった[9][注 3]。
川辺本陣一帯は、1893年、明治26年の洪水により大被害を受け、本陣そのものが流失してしまい、難波氏の資料も残っていない[5]。

川辺脇本陣
最寄駅
『本陣殺人事件』と川辺本陣

第二次世界大戦末期から3年余り吉備郡真備町岡田村字桜部落(現・倉敷市真備町岡田)に疎開していた横溝正史は、この疎開宅で金田一耕助が初登場する『本陣殺人事件』を執筆・発表した[14]。
横溝は疎開宅でのインタビューで、「近ごろ力の入ったのは雑誌『宝石』に書いた『本陣殺人事件』、これはこの村(岡田村)を舞台にとったもんだ」と述べている[15]。また、事件が起きた一柳家のモデルとなった旧本陣の末裔については、『金田一耕助のモノローグ』に「私の疎開していた岡田村のすぐ南方に川辺という村があり、そこは昔街道筋に当たっていたとやらでそこに本陣があったが、明治になってから川辺村を引き払い、その子孫の一家が岡田村の山の谷へ移り住んでいた」と記している[16]。
『本陣殺人事件』には川辺本陣の名前こそ記載されていないが、「一柳家はもと、この向こうの「川―村」の者であった。「川―村」というのは昔の中国街道に当たっていて、江戸時代にはそこに宿場があり一柳家はその宿場の本陣であった」と記述されている[17]。近隣の実在する駅名や地名(清音駅、川辺村、岡田村、久代村、総社町、高梁川)は、「清―駅」「川―村」「岡―村」「久―村」「総―町」「高―川」と、伏せ字で記されている。
なお、横溝の妻・孝子は、一柳家のモデル宅について、村人たちから「大加藤」と呼ばれている加藤家の屋敷の本家で、「もとは高梁川のたもとの川辺村で本陣として構えていた加藤家だったのですが、明治二十六年の高梁川大氾濫で桜部落の小高いところへ移ったということです」と記している[18]。ただし、本陣は各宿場に1箇所と定められており[注 6][注 7]、前述のとおり川辺本陣は難波氏であり[注 8][注 2]、川辺村で本陣として構えていたという加藤家の由来は不明である[注 9][注 10][注 11]。


