帝国船舶
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1937年(昭和12年)の日中戦争開始による軍需輸送の増大や、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦開始による世界的な船舶需要拡大、各国の海運統制強化などのため、日本は商船の船腹不足に悩むようになった。そこで、外国船取得による自国商船確保を目的として、政府の要請を受けて設立されることになったのが帝国船舶である[1]。
設立には、日本郵船、大阪商船、三井物産(船舶部)、山下汽船、川崎汽船、国際汽船、大同海運、三菱商事(船舶部)および辰馬汽船の大手海運会社9社が参加した。資本金1000万円は各社が均等出資し、役員も各社へ1人ずつ均等に割り当てられ、代表者には国際汽船社長の黒川新次郎が選ばれた[2]。
設立後は政府の統制下で運営されたが、太平洋戦争終結後の1946年(昭和21年)11月に株主総会で解散が決議され、消滅することになった[1]。
事業
設立目的の通り、帝国船舶は外国船舶の確保を事業内容とした。1940年(昭和15年)8月6日に帰国不能となって大連港に在泊中のドイツ商船2隻を購入したのを皮切りに、当初は外国船の購入を進め、1941年(昭和16年)2月末までにドイツ商船5隻を取得した。それ以降は国際情勢の影響などで購入が困難となったことから、傭船中心に切り替え、1944年(昭和19年)までにドイツ、イタリア、ノルウェー、ギリシャ船籍などの商船37隻を雇い入れ、合計42隻の船隊となった。太平洋戦争中には、政府間交渉で徴用された貨客船「帝亜丸」(17,536トン、旧仏船Aramis)などフランス船11隻を依託された。帝国船舶の管理下に入った外国船の多くは、陸軍輸送船「帝興丸」(15,105トン、旧仏船D'Artagnan)や「帝北丸」(5,795トン、旧仏船Persee)などのように「帝」の文字で始まる船名に変更されている。
実際の船舶の運航は帝国船舶が行うのではなく、出資した各海運会社に委託または転貸する形式で行われた[3]。1942年(昭和17年)の船舶運営会設立後は、国家徴用船として船舶運営会に一括傭船され、さらに民間の海運会社へと運航委託されている。一般の海運会社保有船と同様、軍による徴用の対象にもなった。
ビスマルク海海戦で撃沈された貨客船「帝洋丸」(6,863トン、旧独船Saarland)など保有船のほとんどが戦没し、終戦の日の残存船は帝山丸(1,544トン、元スウェーデン船Miramar)[注釈 1] のみであった[3]。