平井健一
From Wikipedia, the free encyclopedia
| |||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 基本情報 | |||||||||||||
| 国籍 |
| ||||||||||||
| 出身地 | 同・東京都港区 | ||||||||||||
| 生年月日 | 1950年3月19日(75歳) | ||||||||||||
| 利き手 | 右 | ||||||||||||
| ツアー経歴・シングルス | |||||||||||||
| 自己最高ランキング | 180位(1974年7月29日) | ||||||||||||
| 生涯通算成績 | 11勝34敗 | ||||||||||||
| 4大大会最高成績・シングルス | |||||||||||||
| 全豪オープン | 1回戦(1974–75) | ||||||||||||
| ウィンブルドン選手権 | 2回戦(1976) | ||||||||||||
| 全米オープン | 1回戦(1971) | ||||||||||||
| ツアー経歴・ダブルス | |||||||||||||
| 自己最高ランキング | 161位(1976年3月1日) | ||||||||||||
| 生涯通算成績 | 17勝41敗 | ||||||||||||
| 4大大会最高成績・ダブルス | |||||||||||||
| 全豪オープン | 2回戦(1974) | ||||||||||||
| 全仏オープン | ベスト8(1974) | ||||||||||||
| ウィンブルドン選手権 | 1回戦(1973–1975) | ||||||||||||
| 全米オープン | 1回戦(1971) | ||||||||||||
| 4大大会最高成績・混合ダブルス | |||||||||||||
| 全仏オープン | 1回戦(1972) | ||||||||||||
| ウィンブルドン選手権 | 1回戦(1977) | ||||||||||||
| 全米オープン | 1回戦(1971) | ||||||||||||
| 獲得メダル | |||||||||||||
| |||||||||||||
| 2026年2月10日現在 | |||||||||||||
平井 健一[注 1](ひらい けんいち、1950年3月19日 - )は、日本の元男子テニス選手。東京都港区出身[2]。ランキング自己最高位はシングルス180位、ダブルス161位[3]。法政大学第二高等学校、法政大学卒[2]。破壊力のあるサーブを武器に、1970年代の日本テニス界を代表する名選手の一人として活躍した[4]。
ジュニア時代
テニス選手であった父・俊輔から幼少期より指導を受け、1965年の第44回毎日庭球選手権のジュニア男子シングルスで優勝して頭角を現す[1][5]。法政大学第二高等学校在学中の1966年12月、沢松順子・和子姉妹らと共にアメリカのオレンジボウルに派遣され、16歳以下男子シングルスで準優勝を飾った[6]。この決勝戦ではホームステイ先での食事が十分でなかったことからスタミナ切れを起こしたと後に回想している[7]。
1967年8月、全国高校庭球選手権および全日本ジュニア庭球選手権の男子シングルスを制覇[8]。11月には第42回全日本庭球選手権に出場し、高校生が1回戦で4時間を超える接戦を制したことが話題となった[9]。12月は2年連続でオレンジボウルに出場し、18歳以下男子シングルスでベスト8に進出した[10]。
1968年は全日本ジュニア庭球選手権のシングルス2連覇に加え、ダブルスでも優勝[11]。同年9月、指導者・松本武雄の指示により第47回毎日庭球選手権の男子ダブルスに4学年上の浅田伸二(法政大学4年)と組んで出場して優勝[11][12]。1969年に法政大学へ進学すると、7月の全日本学生庭球選手権ではシングルス・ダブルス(パートナー:神和住純)の両方で優勝を飾った[4][13]。なお、毎日庭球と全日本学生庭球は父の俊輔も優勝しており親子2代にわたるタイトル獲得となった[4][14]。
国際大会への挑戦
1969年10月、ジャパン・オープンの前身となる第21回朝日国際招待庭球大会に日本Bチームの一員として出場[15]。ブラジルおよびユーゴスラビアチームと対戦して最下位に終わるも他国のトップ代表選手相手の国際試合を初めて経験した[16]。翌1970年10月の第22回大会ではやはり日本Bチームとしてイタリアおよびインドチームと対戦し、平井はシングルスで当時イタリアのナンバーワンだったマーティン・マリガンから白星を挙げてチームの優勝に貢献した[17][注 2]。同年の全日本ランキングでは6位にランクイン[19]。
1971年は日本人選手の海外ツアー遠征が本格的に始まった年であり、平井も神和住・坂井・沢松らに同行してグランドスラム大会へ初出場した[20]。全仏オープンとウィンブルドン選手権では予選決勝まで進出し、予選のなかった全米オープンでは本戦出場権を得るも初戦で敗退した[21][22]。1972年、第47回全日本庭球選手権の男子シングルス決勝で神和住に敗れ準優勝[23]。平井は同大会のシングルスで計3回の準優勝を記録しているが、タイトル獲得には至らなかった[23]。一方ダブルスでは第49回で初優勝して以降、3連覇を2度達成して通算6勝を挙げた[23]。
1973年、デビスカップに初選出[24]。東洋ゾーン2回戦対インドネシアのダブルスで勝利を挙げ、チームの勝利に貢献した[25]。同年6月のウィンブルドン選手権では予選1回戦で敗退したが、結成直後の男子プロテニス協会(ATP)と国際ローンテニス連盟(ITLF)の対立によるトップ選手の出場ボイコット騒動が発生し、ラッキールーザーとして本戦に繰り上がるも1回戦で敗れた[26]。同年8月、モスクワ・ユニバーシアードに出場し、男子シングルスで銅メダル、沢松和子と組んだ混合ダブルスで銀メダルを獲得した[27]。
1974年に大学を卒業し住友軽金属工業に入社[28]。同年6月の全仏オープン男子ダブルスでは、坂井利郎とのペアでベスト8に進出する快挙を成し遂げた[29]。同年9月、イラン・テヘランで開催された第7回アジア競技大会に出場し、男子ダブルスおよび男子団体で金メダルを獲得[30][31]。1976年6月のウィンブルドン選手権では予選を勝ち抜き、本戦1回戦で勝利を収めてグランドスラムシングルスでの初白星を挙げた(2回戦敗退)[32]。日本人男子選手によるウィンブルドン本戦出場は、1990年に松岡修造が予選を突破するまで平井が最後であった。同年、全日本JOPランキングで1位を獲得している[19]。
プロ転向後
1978年1月、フタバヤラケットと契約してプロに転向[28]。その後ゴーセンやプリンスホテルなどに所属した[33]。1980年代は主に国内ツアーで活動し、全日本プロ選手権のダブルスで4度の優勝を飾るなど息の長い活躍を見せた[33]。1989年より山梨県の富士河口湖にあるFITリゾートクラブにて専属プロを務めていた[7]。現役引退後は後進の指導にあたり、日本スポーツ協会公認スポーツ指導者(テニスコーチ)として活動している[2]。