平孫八
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後蘭孫八は世之主に仕えた四天王(後蘭孫八、西目国内兵衛佐、国頭弥太郎、屋者真三郎)の一人で、和泊町の後蘭集落を支配した按司(豪族)である。沖永良部世之主の真松千代は北山王の次男とされ、母が沖永良部島出身者だったことから王より世之主に任じられた。父親の北山王は珉王だとされ、それが正しければ攀安知王の兄弟となる[2]。北山王三男の王舅は与論島世之主に任じられている。
真松千代は居所を定める際、すでに孫八が築いていたグスクを気に入り、孫八にグスクを譲るようお願いした。世之主は代わりに好きな地を与えると言い、孫八は7日間適地を探して島を回り、最終的に後蘭集落に後蘭孫八グスクを築いた。現在、世之主グスク跡は世之主神社となっている[3]。後蘭孫八グスクは自然の石灰岩カルストを地形をうまく利用し、石積みで更に機能を強化した造りになっていて南側には孫八自身の墓もあり、道向かいにあるヌルバンドー(ヌルの墓)は孫八の妻のものとされる[4]。世乃主由緒書では、世之主が孫八に命じて大城村にグスクを築かせたとしている。
孫八は、壇ノ浦の戦いで敗北し南走平家として渡ってきた平家の子孫という伝説を持つ。南走平家伝説は根拠がなく歴史学的には認められていないものの、孫八の本拠地だった和泊は日本の漁師が、漁の前に波が落ち着くまで休憩したことから名付けられたとする説もあり、倭寇が治めた地名には後蘭に近い「ゴリア」「グリア」がつくとされることから倭寇とする説もある[5]。事実、考古学的資料からも南西諸島を往来する人々の存在は確かめられており、おもろにも、船を用いて交易を行う孫八の姿や沖永良部島が船を架け橋に交易で栄える姿が謳われている。
1416年、中山王・思紹の王世子・尚巴志は、護佐丸ら中山や北山の按司を率い、3500の大軍を指揮して今帰仁グスクへ向かった。この北山侵攻で攀安知王は敗れ自害し、北山王国は滅亡した。旧北山領の沖永良部島には中山からの和睦の船が派遣されたが世之主は「北山王次男の自分を攻めるために攻撃の船を派遣してきた」と思い、「小島を持って大国には敵し難い」奥方と息子とともに自害したという。別の説では中山の船が現れた際に世之主は孫八ら四天王を遣わし中山の目的が征伐か和睦かを確かめさせようとした。その際、軍船なら赤の旗を、和睦船なら白の旗をあげよと命じたが、中山の和睦の使者から歓待を受けた四天王が酒に酔い、誤って赤旗を掲げてしまい、敵わぬと世之主は自害してしまったという[6](酔いつぶれて旗を振らなかったので四天王は殺されたと思ったとする説もある)[7]。
世之主自害後、責任を感じた四天王たちは命を経とうとするも、屋者真三郎だけが「我らが死ねば誰が世之主の墓を造るのだ」と言い、四天王は死を思いとどめ、琉球本島に渡り石工を連れてきて墓を作ったという。しかし、実際の墓の建造年はわかっておらず、300年ほど前のものとする説がある。世之主の墓はトゥール墓と言い、鹿児島県指定文化財に指定されている[8]。
脚注
- ↑ “後蘭孫八城跡・ヌルバンドー”. おきのえらぶ島の旅 | 沖永良部島観光サイト. 2026年4月24日閲覧。
- ↑ “与論城跡/与論島旅行のビーウェーブ”. 与論島旅行のビーウェーブ (2022年3月29日). 2026年4月24日閲覧。
- ↑ “世之主神社(居城跡)”. おきのえらぶ島の旅 | 沖永良部島観光サイト. 2026年4月24日閲覧。
- ↑ “後蘭孫八城跡・ヌルバンドー”. おきのえらぶ島の旅 | 沖永良部島観光サイト. 2026年4月24日閲覧。
- ↑ “沖永良部島の字の地名由来 – 沖永良部島の暮らし方”. 2026年4月24日閲覧。
- ↑ “沖永良部島の伝説をめぐる「世の主スタンプラリー」をやって友達が増えた話。|Hauptbahnhof”. note(ノート) (2020年9月24日). 2026年4月24日閲覧。
- ↑ hana (2019年5月15日). “初代沖永良部島の王☆世之主の墓 【沖永良部島】”. 暮らしに馴染む旅. 2026年4月24日閲覧。
- ↑ hana (2019年5月15日). “初代沖永良部島の王☆世之主の墓 【沖永良部島】”. 暮らしに馴染む旅. 2026年4月24日閲覧。
参考文献
- JCC出版部著『絵で解る琉球王国歴史と人物3』