平家都落
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前史
治承4年(1180年)5月に発生した以仁王の乱をきっかけに源頼朝・源義仲ら源氏勢力をはじめとする各地の武士が平家政権に対する反乱を起こす。翌治承5年閏2月4日(1181年3月20日)に平家政権の最高指導者であった平清盛が病死するが、戦乱は収まる気配を見せなかった。反乱勢力で有力であったのは、東国に割拠した源頼朝とその従弟で信濃国から北陸道の東端にある越後国に進出した源義仲であった。
この年の7月に元号が治承から養和に改められるが、ほぼ前後して北陸道の各地で義仲に呼応するかのように反乱が発生するようになる。北陸道は平安京への食料や物資の供給地域でもあり、危機感を抱いた平家政権は討伐軍を編成して現地に派遣するものの、順調にはいかなかった(養和の北陸出兵)[1]。このため、9月に入ると早くも平家が安徳天皇を奉じて西国に都落するのではないかとする噂が囁かれ始める[2]。清盛の死からわずか7か月後のことであった[3]。
ところが、この頃日本全国を大規模な飢饉(養和の飢饉)が襲い、政権側も反乱軍側も動きが低調となってくる。しかも、養和2年改め寿永元年(1182年)11月には安徳天皇の大嘗祭が実施される予定になっていた。このため、治天の君である後白河法皇はこの時期の反乱軍追討の実施には否定的で、清盛の死後法皇との協調関係によって政権を維持し続けようとした平家側も受け入れざるを得なかった[4]。しかし、この間の7月に俗に北陸宮と称された以仁王の王子が京都を逃亡する。程なく北陸宮は越中国に逃れて源義仲の庇護を受けることになる。義仲の兄・源仲家は法皇の異母妹で以仁王の育ての親と言える八条院に仕えて以仁王の乱で戦死しており、北陸宮はその縁を頼ろうとしたと考えられている。一方、義仲にとっても反平家の呼びかけ人である以仁王の遺児でなおかつ皇位継承の可能性のある皇孫を庇護下に置いたことで向背が定まらなかった北陸道の反平家側の武士達に対する求心力を獲得し、更に源義広・行家ら一旦は源頼朝の傘下に入った清和源氏の一族の中からも義仲に呼応する動きが見られ始めた[5]。
寿永2年(1183年)に入ると、平家政権は北陸道に対して10万余騎[6]とも4万余騎[7]とも言われる義仲追討軍を派遣した。追討軍は強制的に徴用された者も多く士気は決して高くはなかったが、越前国火打城の戦いで勝利した後、越中国に向かって進撃した[8]。
経過
しかし、寿永2年5月11日(1183年6月2日)、倶利伽羅峠で追討軍は少数であった源義仲の軍勢の攻撃を受けて大敗(倶利伽羅峠の戦い)、義仲軍の追撃を受けた追討軍は6月1日(6月22日)の篠原の戦いにおいて壊滅的な打撃を受けた[9]。
勢いに乗じた義仲軍が上洛するのも時間の問題とされ、源氏の中でも平氏政権に従い続けていた摂津源氏の多田行綱らも叛旗を翻した。平家は後白河法皇から宣旨を受けて集めた平安京防衛のための5千騎を瀬田と田原の2手に分けて配置したものの、7月22日に平安京の政治・軍事にも大きな影響力を持つ延暦寺が義仲軍に就くことを正式に決定した[10]ことで、平氏政権の平安京防衛の事実上の崩壊と源義仲軍の入京が事実上確実な情勢となった[11]。
清盛の死後、平家の棟梁として平氏政権率いてきた三男の内大臣平宗盛は、平安京防衛を断念して安徳天皇と治天の君である後白河法皇を奉じ、三種の神器と共に九州の大宰府に移ることを決断する。7月25日巳刻(午前10時頃)、平安京内にあった平家政権の拠点であった六波羅と西八条にあった平家一門の邸宅に火を放ち、安徳天皇や母后平徳子(清盛の娘)らを奉じて平安京を脱出した。しかし、平家の保護下にあった天皇や母后と異なり、後白河法皇の同行には失敗してしまった。後白河法皇は平清盛の娘婿であった摂政近衛基通からの情報で平宗盛が平安京を脱出する際に自分を連れて行こうとしていることを知っていた法皇はその日の寅刻(午前4時頃)に、親平家の北面の武士の動向の不自然さに気付いて院御所のあった法住寺を脱出、新熊野から輿に乗って鞍馬山を経由して延暦寺に逃れた。宗盛は辰刻(午前8時頃)にその一報を手にするがなすすべがなかった。法皇の同行を信じて厳重な監視体制を取らなかった宗盛の失態ではあったが、父・清盛が治承三年の政変で法皇を幽閉して内外の反発を買った記憶が新しい中で、軍事的に強制的な連行する形で法皇を同行させた場合の悪影響を考えざるを得なかった宗盛の取るべき手段は限られており、法皇を同行させること自体が困難であったと言える[12][13][14][15]。さらに、平家一門と行動を共にするはずだった摂政の近衛基通も、途中で引き返して後白河法皇がいる延暦寺に逃げ込んだのである。平家一門にとって姻族[注釈 1]である基通の裏切りは、以前から対立を抱えていた法皇の脱出以上に衝撃が大きかった[16][13][17]。皇室の家長と言える治天の君と幼少の天皇の名代的存在である摂政を失うことは、当代の天皇と三種の神器を保持していたとしても王権を掌握したことにはならず、その後の平家に暗い影を落とすことになる[18][17]。
更に、清盛の異母弟である平頼盛はこれに加わることがなかった。治承三年の政変で後白河法皇を擁護したために平家一門でありながら解官され、更に彼の生母である池禅尼が助命させた源頼朝が反平氏の挙兵をして東国を制圧したことで一門内での立場を失っていた。そんな折に宗盛の命令で高齢にも関わらず山科に出陣させられた上に、宗盛は頼盛には何の連絡もせずに都落をしてしまったのである。これに憤った頼盛は基通と同じく後白河法皇がいる延暦寺に逃げ混んだのである[19]。法皇は頼盛とつながりの深い八条院に匿わせた[20]。
また、平田家継や伊藤忠清のような伊勢国・伊賀国を拠点とする平家の家人も事実上置き去りの状態で取り残されることになった[21]。
平家の都落の結果、源平両軍が京都市中で軍事衝突する最悪の事態だけは回避することは出来たが、燃えさかる平家の邸宅に燃え残った財宝を求めた盗賊が乱入するなど、市中は混乱状態に陥った[17]。
7月28日、入京した源義仲は院御所において比叡山から戻った後白河法皇に拝謁し、平家追討の命令を受けることになる[22]。
一方、安徳天皇を奉じた平家の人々は8月26日に大宰府に辿り着く[23]が、法皇による追討令が九州にも届くと現地の空気も変わり、10月20日にはかつての平家家人であった緒方維義が大宰府を襲撃し、大宰府をも追われることになる[24][25]。
新帝践祚
比叡山に逃れた後白河法皇は翌7月26日に知らせを受けて駆けつけた公卿達と臨時の会議を開き、26日中に山を下り、翌27日に院御所に戻ることになった[26]。
朝廷においては、平家によって安徳天皇と共に三種の神器も京都から持ち出されてしまった状態であったが、朝廷の機能を停止させるわけにはいかない以上、新しい天皇を践祚させるべきだとする議論が起こった。8月14日に源義仲の要求の件(後述)もあり、有力公卿である前関白松殿基房・左大臣大炊御門経宗・右大臣九条兼実が後白河法皇に呼び出される。協議の結果、義仲の要求を拒絶して安徳天皇の3人の異母弟――すなわち高倉天皇の皇子の中から選ぶことになったが、第二皇子の守貞親王は乳母が平知盛正室の治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出されてしまっているため、第三皇子惟明親王と第四皇子尊成親王のいずれかから卜筮にて定めることになった。しかし、卜筮の結果が芳しくなく18日に再び有力公卿を集めたが、九条兼実は病気を口実に欠席し、代わりに前回欠席した摂政近衛基通が出席している。義仲の要求に従う方向に傾きつつあった基房に対して、近衛基通と大炊御門経宗は何とか押しとどめた。最終的に卜筮の結果として、8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚した(後鳥羽天皇)[27][28]。なお、院宣の宣命には安徳天皇は京都を出たことによって「不慮脱屣」すなわち「思いがけない退位」をしたと判断を下した上で践祚を宣言している[29]。また、新帝の摂政には安徳天皇の摂政として平氏政権と協力していた近衛基通が留任した[注釈 2]。これは、後白河院に平家都落の情報を送って西国に連行される事態を防いだ功労と考えられるが、世間では平家都落の際に避難先の比叡山にて基通と法皇が男色関係になったとする風説が流れ、九条兼実もそれを日記に記している(『玉葉』8月18日条)。なお、前述のように守貞親王(承久の乱後、実子後堀河天皇の即位に伴って後高倉院となる)は安徳天皇と共に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪孫ではあるものの、唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)が亡くなっていたために、消去法的に尊成親王が選ばれたと考えられている[30]。なお、尊成親王についても乳父である能円が清盛の室であった二位尼平時子(宗盛の母で安徳天皇の外祖母)の異父弟であったことから、平家によって西国に連れ出される可能性があったが事前に阻止されている[31]。
一方、源義仲は以仁王の遺児で自らが庇護してきた北陸宮の即位を要求していた。義仲の論理で行けば、治承3年の政変に際し、幽閉されていた父院を救援するために挙兵して命を落とした以仁王こそ「至孝」の息子であり、清盛を恐れて傍観した高倉天皇の系統ではなく、以仁王の遺児を立てるのが当然と述べている(『玉葉』8月14日条)。しかし、皇位継承は天皇の皇子が優先されるのが当然で、なおかつその決定権は治天の君の最重要権限であり、後白河法皇からすれば治天の君である自身への重大な挑戦と受け止められた(そもそも、自身が二条天皇即位までの中継ぎの天皇として擁立されたために立場の弱かった後白河法皇は高倉天皇を擁立することで初めて治天の君としての正統性を得て名実ともに院政を開始することが出来たのである[32]。義仲は知らず知らずのうちにその正統性に挑戦してしまったことになる)。このことが飢饉による兵粮不足に端を発する京都市中で発生した義仲軍による略奪行為と並んで法皇と義仲の間に修復不可能な溝を生むことになった[33][34]。
後白河法皇と朝廷は平家追討を命じる一方で、安徳天皇と三種の神器の帰還と引換に和平交渉を試みようとした。しかし、後白河法皇が新帝を践祚させてしまったことで、安徳天皇の帰還後の皇位をめぐる紛糾が避けられず、それが自身の治天の君の立場を揺るがすことに気付き始め、九条兼実ら廷臣達の和平論とは裏腹に次第に強硬論に転じることになるのである[35]。
その後、大宰府から東遷した平家は讃岐国の屋島に本拠を置いて勢力の回復に努めたが、屋島の戦いなどでも源氏方に敗れ、壇ノ浦の戦いで滅亡した。