平野勝之 (ゴルファー)
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1967年の西日本オープンでは柳田勝司・西宮辰幸・上田鉄弘・藤井義将・細石憲二を抑えて中部銀次郎の2位[1]、西日本サーキットBSシリーズでは8位に入り、長崎シリーズでは木本与・石井裕士・新井進・杉原輝雄・宮本省三・今田慶之助・河野高明・細石・海野憲二を抑えて優勝[2]。
1967年には澤田芳男(熊本大学名誉教授)が高速度カメラを使ってプロゴルファーの動作分析を行ったが、平野が最初の対象選手となった[3]。
1971年のブリヂストントーナメントでは10位[2]に入り、1972年のアジアサーキットではフィリピンオープンで郭吉雄(中華民国)、フランク・フィリップス(オーストラリア)、G.ウォルス・テンフォルム(イングランド)と並んでの10位タイ[4]、マレーシアオープンで謝敏男(中華民国)と並んでの10位タイ[5]、台湾オープンではウォルター・ゴドフリー(ニュージーランド)と並んでの10位タイ[6]に入った[7]。
1973年の第1回KBCオーガスタでは今井昌雪・石井裕・宮本省三・村上隆、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、吉川一雄と並んでの7位タイに入った[8]。
1975年のKBCオーガスタでは3日目にテッド・ボール(オーストラリア)、郭吉雄(中華民国)、小林富士夫・森憲二と並んでの10位タイに浮上[9]。最終日にはボールと共に草壁政治、ビル・ダンク(オーストラリア)と並んでの10位タイに留まった[10]。
1975年のダンロップフェニックストーナメントでは初日に石井裕・川上実・野口英雄・新井規矩雄・内田繁、セベ・バレステロス(スペイン)、許勝三(中華民国)・橘田光弘と並んでの6位タイでスタートした[11]。
1976年のサントリーオープンでは初日を青木功・上野忠美・原政雄・矢部昭・謝敏・郭吉、ミヤ・アエ(ビルマ)、ロジャー・モルトビー&オービル・ムーディ&ロン・ヒンクル(アメリカ)と共に69をマークして9位タイでスタートし[12]、2日目も青木・アエと共に小林・宮本省と並んでの9位タイ[13]に着けた。
1978年の静岡オープンでは初日に陳健振&呂良煥(中華民国)・栗原孝・青木・森憲二と並んでの3位タイ[14]でスタートし、中部オープンでは最終日に65をマークして井上幸一・鈴村久・石井秀夫に次ぐ4位[15]に入った。
1978年の日本プロでは川波通幸・山本善隆と共に[16] [17]2日目には鷹巣南雄・草柳良夫・横島由一[16]、3日目には小林・森本俊治[17]と並んで2日連続10位タイ[16] [17]に着けた。
1980年の中部オープンでは2日目に69をマークして5位に着け[18]、1987年の関西オープン[19]を最後にレギュラーツアーから引退。
2001年からは大阪学院大学ゴルフ部監督に就任し[20]、後に総監督も務め[21] [22]、在任中は関西学生1部リーグ9連覇と全国大学対抗戦2位1回(2012年)・3位2回(2013年, 2014年)[23]に導いた。