野口英雄
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1971年の第1回美津濃トーナメントで前田新作・草壁政治と並んでの3位タイ[1]、1974年の第4回では内田繁・榎本七郎に次ぐと同時に鈴木規夫・草壁・松井功を抑え、金本章生と並んでの3位タイ[2]に入る。
1974年の中日クラウンズでは村上隆・尾崎将司・青木功・島田幸作、グラハム・マーシュ(
オーストラリア)に次ぎ、宮本康弘・金井清一・新井規矩雄・山本善隆・呂良煥(
中華民国)と並んでの6位タイ[3]に入った。
1975年のペプシウィルソントーナメントでは初日を豊田明夫・草壁、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、関水利晃・内田・吉川一雄・沼澤聖一・村上・尾崎将・呂良・中村寅吉と並んでの4位タイ[4]でスタートし、2日目には中村・尾崎将・ジョーンズと並んでの2位タイ[5]、3日目には鈴木と並んでの4アンダーで2位タイ[6]に続いた。
1975年の中部オープンでは初日を加藤辰芳・寺嶋拓夫と共に鈴村照男から2打差2位タイ[7]でスタートし、2日目には68をマークして首位に立ち[8]、最終日には69をマークした大場勲に並ばれたが、プレーオフで下してツアー初優勝[9] [10]を果たす。
1975年の美津濃トーナメントでは内田・草壁に次ぐと同時に西山正己・林慎一と並んでの4位タイ[11]に入った。
1976年のアジアサーキット・シンガポールオープンでは内田袈裟彦、ベン・アルダ(
フィリピン)、マーシュに次ぐ6位[12] [13]に入った。
帰国後のフジサンケイクラシックでは初日を秋富由利夫と共に69をマークして6位タイ[14]でスタートし、2日目も69で回り首位日吉定雄に1打差の2位[15]に浮上するが、3日目には岩下吉久と並んでの4位タイ[16]に後退し、最終日には村上と並んでの6位タイ[17]に終わった。
日本プロマッチプレーでは予選最終ラウンドまで進み、通算3アンダーで並んだ内田とプレーオフになったが、内田に敗れている[18]。
1976年の産報チャンピオンズでは杉原輝雄・前田と並んでの10位タイ[19]、1978年の美津濃トーナメントでは草壁と並んでの3位タイ[20]、同年の中部オープンでは井上幸一・鈴村久・石井秀夫・内田・石井裕士に次ぐと同時に大場・豊田を抑えての9位[21]に入り、1985年の中部オープン[22]を最後にレギュラーツアーから引退。