今井昌雪
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1962年にプロ入りし[1] [2]、同年の日本オープンでは杉原輝雄・陳清波(
中華民国)・橘田規・小針春芳に次ぐと同時に石井迪夫・勝俣敏男と並ぶ6位タイ[3]、1965年の関東プロでは戸塚カントリー倶楽部のコースレコード70を記録して[4]石井冨士夫の2位[5]に入った。
1970年の関東プロでは三浦勝利・河野高明・佐々木勝と並んで石井の2位タイ[6]、1971年のロレックストーナメントでは鷹巣南雄・矢部昭・森憲二と共にアーノルド・パーマー(
アメリカ合衆国)と並ぶ2位タイ[7] [8]に入った。
1972年はニュージーランドPGAに杉本英世・河野高・村上隆・内田繁・尾崎将司と共に招待されて出場し[9]、アジアサーキット・フィリピンオープンでは初日に3位に着け[10]、最終日は謝永郁(中華民国)と並んで杉本に1打差付けての首位タイでスタート[11]。村上の追い上げを許すが、鷹巣、ベン・アルダ(
フィリピン)と並んで4位タイ[12]と健闘。
国内では沖縄テレビカップ(6380ヤード、パー72)で山本善隆・橘田・宮本省三・新井規矩雄・沼澤聖一・杉原・村上・尾崎らを抑え、細石憲二と並んで、時に56歳5ヶ月と4日、レギュラーの最年長優勝記録を樹立[13]した中村寅吉の2位タイに入った[14]。大会は2日間54ホールの忙しくタフな試合であったが、この試合の参加人数などは不明だが、日本中の100数十人のプロが参加し、当時は沖縄返還記念の行事として大々的に開催された[14]。
中日クラウンズでは初日に尾崎が中村寅と並んで74と出遅れ、2日目には『和製ビッグ3』の河野高・杉本・安田春雄が揃って予選落ちするなど日本勢が苦しむ中、ピーター・トムソン(
オーストラリア)、テリー・ケンドール(
ニュージーランド)に次ぐと同時にサム・スニード(アメリカ)、ジョニー・ミラー(アメリカ)、イレネオ・レガスピ(フィリピン)、謝敏男(中華民国)を抑えて日本人最上位の3位と健闘[15]。
ABC日米対抗個人戦では初日を村上と並んでの10位タイ[16]でスタートすると、2日目にはアウトを4バーディの1ボギー、インでも3バーディの1ボギーのいずれも33で回り、この日のベストスコア66をマークして5位タイに躍進[17]。最終日も気合の入ったプレーを見せ、前日まで首位のリー・エルダー(アメリカ)と並ぶ日本勢最高位の4位タイと健闘[18]。
1973年の第1回KBCオーガスタでは石井裕士・宮本省・村上、ブライアン・ジョーンズ(オーストラリア)、吉川一雄・平野勝之と並んでの7位タイ[19]、関東オープンでは謝敏・尾崎と並んでの8位タイ[20]に入った。
大箱根カントリークラブ所属[3]を経て、1974年からは富士宮市の朝霧ジャンボリーGC所属プロとなる[1]。
1974年のスポーツ振興インターナショナルでは2日目に大場勲・郭吉雄(中華民国)・宮本省三と並んでの3位タイ[21]、3日目には島田幸作と並んでの5位タイ[22]に着けた。
1975年、初めて海外で開催された日本のトーナメント「クイリマ&タカヤマ・クラシック」[23]に出場し、初日を鈴村照男・鷹巣と並んでの5位タイ、内田とペアを組んだダブルスでは吉川&鈴木規夫ペアと並んでの3位タイ[24]でスタート。2日目に4位タイ[25] [26]とし、最終日にはダブルスで5位[27]に入った。
1975年の全日本ミックスダブルスでは岡田美智子とペアを組み、初日を内田&諸星明美ペア・石井富男&鈴木美重子ペア・三浦&藤村政代ペア・村上&佐々木マサ子ペア・石井冨&小滝澄枝ペアを抑えての首位[28]でスタートし、最終日には石井富&鈴木の2位[29] [30]に終わった。
1975年の第1回日本プロマッチプレーでは初日に杉本らとアウト15番目にスタートし、4番の6mパットを沈めて連続3バーディーの好調を維持して、自身が持っていた戸塚CCのコースレコードを更新する4アンダー68で首位に立った[4]。2日目には安田らと共に無難に3アンダーで通過[31]したが、3日目には雨に災いされて波乱含みの中で山田健一に1ホール残して敗退[32]。
ホームの朝霧で行われた1977年の関東オープンでは、初日に小林富士夫・長谷川勝治と4アンダー66で並んで首位に立つ[33]。2日目には崩れて4位に落ちたが[34]、3日目には12番でイーグルを取り、共に首位タイで譲らない村上・川田時志春と激しい首位争いを演じる[35]。16番では第2打をひっかけてサブグリーンとの間のラフに入り、20mはあったものの、ナイスアプローチで一緒につけたが、フックラインを外してボギーに終わる[35]。川田と共に首位を守ろうとするあまり、パットの微妙なタッチにしくじって結局6アンダーと後退し[35]、最終日には矢部・上原宏一と並んでの7位タイ[36]に終わった。
1978年の阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を関水利晃・草柳良夫・吉川・野口茂・鈴木規・高井吉春と並んでの6位タイ[37]でスタートし、最終日には西宮辰幸・高井・中島弘二と並んでの8位タイ[38]に入った。
1979年のくずは国際では初日を橘田光弘・宮本・橘田・上原・中村通、グレッグ・ノーマン(オーストラリア)と並んでの6位タイ[39]でスタートし、最終日には橘田光・岩下吉久・石井裕・鷹巣・中村・草壁政治・ノーマンと並んでの10位タイ[40]に入った。中日クラウンズでは強風の中で迎えた7番でホールインワンを達成し[41] [42] [1]、関東プロでは青木功・金井清一・川田・長谷川・尾崎・山田に次ぐと同時に謝敏・謝永・菊地勝司・中嶋常幸と並んでの8位タイ[43] [44]に入った。
1980年のKBCオーガスタでは河野高・秋富由利夫、ジョン・マハフィー(アメリカ)、金本章生・横島由一・鷹巣・岩下・菊地勝司と並んでの10位タイに入った[45]。
1981年のゴルフダイジェストトーナメントでは2日目に69をマークして中村と並んでの3位タイ[46]、3日目には矢部と並んでの7位タイ[47]に着けた。
1984年の富山県オープンでは初日を十亀賢二・野口・秋富・井上幸一と共に松本紀彦・佐野修一・天野勝・鷹巣に次ぐ6位タイ[48]でスタートし、最終日には佐野・鈴木弘一・橘田・内田・松本を抑えて[49]自身唯一の優勝を飾る[1] [2]。
1984年の大京オープンでは2日目に高橋完・三上法夫・島田幸作と並んでの9位タイ[50]に浮上し、3日目には鷹巣・島田と並んでの11位タイ[51]に後退したが、最終日には66をマークして石井裕の2位[52] [53]に入った。
1988年のブリヂストンオープン[54]を最後にレギュラーツアーから引退し、シニア転向後は1992年の近鉄ホームシニアで謝敏・鈴村久と並んでの5位タイ[55]、1993年の近鉄ホームシニアで上田鉄弘・謝敏と並んでの5位タイ[56]、1994年の鳳凰カップでビル・ダンク(オーストラリア)と並んでの8位タイ[57]に入った。
1997年の日本プロシニア[2]を最後にシニアツアーからも引退し、2000年の関東プログランドシニアでは6位[58]に入った。