平野郷夏まつり
大阪府大阪市平野区の平野旧市街(平野郷)で行われている伝統的な祭礼
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平野郷夏まつり(ひらのごうなつまつり)または杭全祭(くまたまつり)[1][2][疑問点][注釈 1]は、大阪府大阪市平野区にある杭全神社を中心として、例年7月11日から7月14日の間に行われる祭礼[3][4][5][6]。「大阪市内最古の市街地の一つ」とされ、飛鳥時代からの歴史を持つ平野旧市街(平野郷)が舞台であり[7]、祭礼自体も平安時代からの歴史をもつ。来場者数は合計30万人を超え、大阪市内においては最大級の地車祭・天神祭に次ぐ夏祭といわれる[3][4][6]。

本項では、杭全神社の境外摂社三十歩神社(赤留比売命神社)で7月31日と8月1日に行われる、子ども向けの三十歩子どもまつり(さんじゅうぶこどもまつり)または三十歩祭(さんじゅうぶまつり)についても併せて述べる。
歴史
祇園会から地車祭へ
坂上広野麻呂の息子である坂上当道が、当時の杭全荘に862年(貞観2年)ごろ創建した祇園社(現在の杭全神社)において祇園会を執り行ったことが、杭全祭のはじまりである[4]。当時は特に天災や疫病が頻繁であり、疫病の治療を教えたという霊験のある素戔嗚尊(牛頭天王)の祇園信仰が盛んであった[4]。杭全神社の創建から約7年後の869年(貞観4年)には、同じく素戔嗚尊を主祭神とする京都の八坂神社も創建されている。
戦国時代から江戸時代にかけての平野は、堺と並ぶ環濠自由都市から人口一万強の商工業都市へと変貌していったが[8]、杭全神社の祇園会も、時代が下るにつれて神事に加え祭礼の色合いが強くなっていく[4]。江戸時代中期の18世紀半ばまでには、現在の杭全祭と同様の神輿・布団太鼓・地車を中心とする華やかな形式が定着した[4]。地車の意匠は、当時全国でも大規模な産業都市であった平野の財力を以て投じられたもので[9]、記録上確認できる最初のものは1745年(延享2年)に製作された馬場町の初代地車、現存する地車の中で最も古いものは1845年(弘化2年)製の市町地車である[4]。
国宝と地車

八坂神社祇園祭で山車が「御旅所」に渡御するように、杭全祭においてもかつては大鳥居のそばに御旅所があった[10]。しかし、明治時代から大正時代にかけて、当時の大阪府が十大放射路線計画を推進し、平野の市街を横断していた奈良街道(現在の国道25号線)の拡幅工事が行われた[11]。この拡幅工事によって御旅所が撤去されたために、代わりとして拝殿を神輿の渡御に用いることとなった[10]。当時の日本政府は、鎌倉時代に建てられた杭全神社の大門の国宝指定を予定しており、門の現状維持を通達していた[10]。
このような国宝指定の予定があった一方、地車が拝殿まで至る間に大門が支障になったために、町衆が大門の嵩上げを行ってしまう[10]。これを勝手な改竄だとして、結局政府は国宝指定を取り下げることとなったが[10]、21世紀となった現在でも嵩上げされた大門は杭全神社に残っており、「町衆が国宝より祭礼を重要視したエピソード」として知られている[10]。なお、現代の御旅所は三十歩神社(赤留比売命神社)である[4]。
現代
2004年(平成16年)から子供と地車の関わりを目的とした「三十歩祭」や[12]、商店街を盛り上げようと2014年(平成26年)から実施されている「前夜祭」など[13]、新たな企画が現代でも行われている。2019年(令和元年)末から広まった新型コロナウイルス感染症により2020年(令和2年)からすべての祭礼が中止され、杭全祭本祭は2021年(令和3年)まで、前夜祭および三十歩祭は2022年(令和4年)まで続いたが[14]、2026年(令和8年)現在は全て復帰している[3]。
九町
江戸時代以前は、坂上家庶流の平野七名家が統治した七町から成る「平野本郷」と、四村(今川・今林・杭全・中野)から成る「平野散郷」とが連合して、ひとつの都市である「平野郷町」を形成していた[15]。杭全祭の各町組は、基本的に平野本郷の七町を継承しているが、野堂町が3組に分割されているなどの変化がある[4]。この町組を、総称して九町(きゅうちょう)といい[6]、それに所属して祭礼に携わる人々を町衆と称す(平野が環濠自由都市であったころの名残である)[16]。
三十歩祭で曳行される子ども地車は、脊口・南・野北および本町が地車を、東が布団太鼓を所有している[12]。また、杭全祭には直接参加しないものの、育和(平野散郷のうち中野を除いた三村)は杭全神社との関係を保ち、地車を保有している[17]。以下に、平野郷夏まつり実行委員会発行の『平野郷夏まつり2026』[18]を出典として、九町の詳細を示す。
| 町組 | 読み | 制作年 | 改修年 | 題材 | 備考 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 平野本郷 | ||||||||
| 市町 | いちちょう | 1845年(弘化2年) | 2021年(令和3年) | 加藤清正の勇姿 | 現存する地車のうち最古。 現行町名の平野市町(ひらのいちまち)とは読みが異なる。 | |||
| 脊戸口町 | せとぐちちょう | 1874年(明治7年) | 1920年(大正9年) 1975年(昭和50年) 1991年(平成3年) 2018年(平成30年) | - | 平野本郷七町としての背戸口町(せとぐちちょう)とは名称が異なる。 | |||
| 泥堂町 | でいどうちょう | 1920年(大正9年) | 1991年(平成3年) | - | 泥姫と称す女性集団が存在する。 | |||
| 流町 | ながれまち | 1887年(明治20年) | 1998年(平成10年) | 源平物 | - | |||
| 西脇組 | にしわきぐみ | 1856年(安政3年) | 1921年(大正10年) 1990年(平成2年) 2020年(令和2年) | - | 平野本郷七町としての西脇町(にしわきちょう)とは名称が異なる。 | |||
| 野堂町 | 野堂 北組 |
のどうきたぐみ | 1994年(平成6年) | - | 三国志 | かつては魚之棚付近にあったため、魚棚組(うおんたなぐみ)と称した。 | ||
| 野堂町 南組 |
のどうちょうみなみぐみ | 2001年(平成15年) | - | 太平記(楠一代記) | 「野堂町南組」である。 | |||
| 野堂 東組 |
のどうひがしぐみ | 1997年(平成9年) | - | 源頼朝 富士の巻狩り | - | |||
| 馬場町 | ばばちょう | 1879年(明治12年) | 1984年(昭和59年) | - | - | |||
| 平野散郷 | ||||||||
| 今川 | 育和 | いくわ | 1931年(昭和6年) | - | - | かつて平野散郷であった今川(いまがわ)、今林(いまばやし)、杭全(くまた)の3地区が和して形成。同じく散郷の中野は含まれない。 杭全祭には参加していない。 | ||
| 今林 | ||||||||
| 杭全 | ||||||||
ギャラリー
- 野堂東組(2025年)
- 流町(2013年)
日程
杭全祭

杭全祭は「日々の神恩に感謝し、神威を高めていただこうともてなす」ことを目的としたもので、神社の祭(11日・14日)と町衆の祭(12日・13日)に大別できる[5][4]。特に観客が多く集まるのは、12日の九町合同曳行と13日の宮入である[4]。さらに本祭に先駆けて複数回の試験曳きや、例年6月の第3または第4日曜日には本町通商店街に九町すべての地車が並ぶ前夜祭が[19]、7月1日には夏祭無事遂行祈願祭が行われる[4]。
- 本町通での前夜祭
- 祭礼の期間中、本町通では提灯が掲出される
祭礼の初日にあたる7月11日の午前6時頃、布団太鼓の巡礼がある。その年の「宮入一番町」が務める「太鼓台当番町」によって太鼓台が杭全神社から運び出され、化粧を施し赤い投げ頭巾を被って潔斎をした、敲子(たたきこ)という男児が中に乗り込む[4]。 布団太鼓が出発すると、続いて午前10時頃に、「宮入二番町」が務める「神輿当番町」によって、神輿が杭全神社の拝殿を発つ[4]。神輿は市街を練り歩いた後、平野川の樋之尻橋で川行き神事を行う[4]。現代の平野川は典型的な掘割河川であるが、江戸時代以前は水量が豊富で、実際に神輿の足を川で洗っていたため、足洗いともいう[4]。夕方に神輿が杭全神社に戻って飾りが施された後、太鼓台が宮入を行う[4][14]。 深夜には神遷神事が執り行われる。杭全神社第一本殿に鎮座する素戔嗚尊の御神体を神輿に移し、最終日14日まで神輿が拝殿の中に鎮座する[4]。
2日目の7月12日早朝から、九町の地車が町内を曳行する[4]。地車が町家を通り過ぎる際には、家々から祝儀が贈られることがあり、これに対し曳き手たちは、感謝と家内安全の念を込めて「もひとつせぇ いおうてさんど パンパン パン」という平野の手打ち(大阪手打ちとはわずかに異なる)を行う[20][21]。 12日の午後9時頃になると、当番町の合図により、九町の地車が市街南側の南港通を目指して曳行し、学芸大通とお渡り筋(かつては大学通と流門筋)の二手に分かれる[4]。全部の地車がそろうと一斉に提灯を灯して九町合同曳行がはじまり、南港通を東西に高速で駆け抜ける競演や、地車を傾けたままその場で回転させる舞々が披露される[4][20]。
3日目の7月13日午前に行われる夏祭祭典は、疫病や災厄が怒らないよう神前で祈祷するもので、平安時代の祇園会を継承したものである[4]。 午後になると地車が町内を曳行し、午後7時頃に九町の地車が大鳥居付近(国道25号線「宮前」交差点)に集まり、舞々やパフォーマンスを披露する[4]。そして宮入一番町から順に30分間隔で宮入を行い、約4時間半して九町すべてが拝殿に至る[3]。深夜1時になると瑞鳳殿に並んでいた九町の地車が出発し、車庫に戻っていく[4][3][14]。

最終日の7月14日になると、初日と同じく午前から太鼓台と神輿が出発し、市街を渡御の列が練り歩く「お渡り」が始まる[14][4]。先頭に猿田彦神を擁した渡御の列は、午後3時に三十歩神社(赤留比売命神社)の「御旅所」へと向かい、御旅所祭が執り行われる[4]。その後はいずれも古くから平野にある全興寺・長宝寺に訪れ、神事を執り行う(神仏習合の名残である)[4][10]。夕方になって、太鼓台を太鼓庫に納める。そして神輿から第一本殿へ御神体を返す神遷神事が再び行われ、これを以て杭全祭は終わりを迎える[4]。
三十歩祭
子供を対象として杭全祭の九町が2004年(平成16年)から開催している[注釈 3]三十歩祭でも、地車の曳行や宮入といった行事は存在する[12][22]。7月31日夕方に町内で子供地車や子供布団太鼓が運行され、8月1日に三十歩神社(赤留比売命神社)へ宮入を行うという日程になっている[12][22]。
安全性
隘路の多い旧市街で地車が文化財のそばを駆け巡り、30万人以上の人出もある[3][4][6]本祭は、大阪府警察の「主要雑踏警備」として、十日戎や天神祭と同様、重点的に警備を行う対象とされている[1]。試験曳きや練習の警備については、平野警察署の許可を受けた九町の関係者が行うこともある。また、特に九町合同曳行や宮入においては、警察官・消防士・九町の関係者が見守る中で行われている[23]。杭全祭全体として、全国的な知名度のある岸和田だんじり祭に比べても穏やかであり、目立った事件や事故がないといわれる。
- 2023年(令和5年)7月4日に開催された大阪府平野警察署協議会においては、委員側の
杭全祭はいわゆる半グレが祭りを仕切っている
という噂の審議を問う質問[2]に対して、警察側が半グレが祭りを仕切っているということは把握しておりません
と返答[2]し、さらに警察と祭礼の関わりについて祭りの会議には、警察も参加していますし、また実務担当者とも話し合いをしており、祭りの関係者には、警察から、適宜申し入れ等をさせてもらっています
と説明[2]した。 - 2016年(平成28年)度の杭全祭に携わった廣瀬久志平野警察署長は、祭りの冊子において
『事故のない、安全で楽しい祭り』となるよう、全署員一丸となって万全の体制で挑みたい
という旨の挨拶を掲載している[24]。 - 普段は市街の国道25号線や田畑門筋を通る大阪シティバス1号系統などは、本祭の期間中地下鉄平野駅方面への迂回・臨時取扱停留所の設置などが実施される[25]。また、一部系統については計画運休が採られることもある[25]。