『吾妻鏡』に駿河国の武士として廬原小次郎の名が見られるように中世以降も庵原を冠する豪族は栄え、室町時代には当地の大名となった今川氏の有力な被官となった。太田道灌の『平安紀行』には道灌と交流のあった人物として庵原民部入道の名がみえる。また「今川仮名目録」には今川氏重臣の一例として、庵原周防守(明応頃)や庵原安房守(大永年間)が借金問題で与えられていた知行を質に入れることを願い出た件が記されている。また安房守は同時期に駿河へ下向していた宗長との交流も見られる。
戦国時代後期には今川義元の躍進を支えた太原雪斎を輩出している。『言経卿記』には山科言経が弘治年間に駿河へ下向していた際に交流があった人物として庵原左衛門尉の名を記している。『甲陽軍鑑』には庵原弥兵衛が武田信玄への使者として派遣されたと記録している。『駿河志料』が修める「天沢寺記」には桶狭間の戦いで戦没した今川氏の将の名が列記されているが、その中には美作守元政、右近忠春、将監忠縁、彦次郎忠良の名が見られる。今川氏真の代には安房守忠胤[注釈 1]がその老臣として諸記に見られるほか、将監忠詮が氏真の二十一人衆に列したともいわれる。今川氏が駿河を失った後は、武田氏に仕えて駿河先方衆となった庵原弥右衛門の名が見られる。
永禄十一年(1568年)末、徳川家康による遠江への侵攻があり、庵原忠良は長谷川次郎右衛門秀匡らと刑部城に立て籠ってこれを迎え撃った。衆寡敵せず、刑部城は陥落した。落城に際し、刑部城主の美しい姫は敵の手にかかって恥をさらすことを厭い、城のそばの池に身を沈めた。そして金襴の蛇に姿を変えたという。村人はこの池を金襴の池と呼び、現在もその伝説を示す掲示板がある(池は埋め立てられて現在は存在しない)。
今川氏に仕えた庵原氏の一族に助右衛門朝昌がいた。朝昌は今川氏、後北条氏、武田氏、そして戸田勝隆に仕えた後、井伊氏に仕官し、その子孫は彦根藩の家老として代々続いた。その他、幕臣となった家もある。