建昌路 (四川)
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歴史
唐代の建昌府を前身とする。唐代以後は大理国の勢力下にあったが、土着の豪族の力が強く大理の統制はほとんど及んでいなかったとされる。13世紀半ば、モンゴル帝国第4代皇帝モンケの弟のクビライを総司令とする雲南・大理遠征が始まると、建昌の酋長の一人建蒂はモンゴル軍に降り、その婿の阿宗は建昌の守備を任せられた。
1272年(至元9年)正月には「建都蛮(ガインドゥの蛮)」が叛乱を起こし、西平王アウルクチ・南平王トゥクルク・四川行省のイェスデルら率いる討伐軍が派遣された[3]。この叛乱ではタンジル[4]、スゲ[5]、バイダル[6]、ヤガン・テギン[7]、劉恩ら武将の活躍によって平定された[8]。
1275年(至元12年)に入って初めてこの地方に建昌路が設置され、徳昌路・会川路・柏興府などとともに羅羅斯宣慰司の管轄下に置かれた[9]。1284年(至元21年)にはかつてモンケ時代に投降した建蒂の娘の沙智が駅站(ジャムチ)の整備に功績を挙げたため、建昌路の総管に任じられている[10]。
マルコ・ポーロによる記録
クビライの治世に大元ウルスを訪れたとされるマルコ・ポーロはチベット地方からカラジャン地方(大理一帯)の間に位置する「ガインドゥ地方」について『東方見聞録』の中で言及している。
ガインドゥは西方に位置する地方である。……ガインドゥはかつて独立の王を戴いていたが、カーンに帰属してより後はカーンの派遣する総督の治下に置かれている。住民は偶像教徒でカーンに臣属する。この地方には都市・集落が多い。首府もやはりガインドゥといい、境域内の辺界に位置している。また一大鹹湖があって多量の真珠を産する。…… — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[11]
また、マルコ・ポーロはガインドゥでは男が自らの妻・娘・姉妹が外国人と関係を持つことを容認する風習があること、ガインドゥで豊富に産出する塩を固めたものを貨幣がわりに利用していることなどを伝えている[12]。