廻神元正 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代生誕 天文14年(1545年)死没 永禄5年2月5日(1562年3月9日)別名 通称:藤十郎 凡例廻神元正時代 戦国時代生誕 天文14年(1545年)死没 永禄5年2月5日(1562年3月9日)別名 通称:藤十郎主君 毛利隆元氏族 松田氏流廻神氏父母 父:廻神就吉、母:おせん子 なし後継:松田元行(佐波興連三男)テンプレートを表示 廻神 元正(めぐりかみ もとまさ)は、戦国時代の武将。毛利氏家臣。父は廻神就吉。 天文14年(1545年)、毛利氏家臣の廻神就吉の子として生まれる。幼少の頃から毛利隆元に仕え、給地として6貫目の地を与えられた。 なお、廻神氏は以前は松田氏を称していたが、元正の伯父である氏吉の代に備後国三谿郡廻神村[1]に住したことから、廻神氏と名乗るようになった。 永禄4年(1561年)11月、石見国の福屋隆兼が毛利氏を離反して尼子氏に属したため、毛利元就や隆元らは石見国へ出陣。永禄5年(1562年)2月5日、毛利軍は福屋隆兼の次男の福屋次郎や福屋氏家老の神村下野守らが守る石見松山城を総攻撃して陥落させ、福屋次郎や神村下野守らを討ち取った[2]。元正もこの戦いに従軍しており、敵の陣中に2度も攻め入って敵兵の首を討ち取る殊勲を挙げ、脇差と隆元自筆の歌が書かれた扇子を与えられたものの、壮烈な戦死を遂げた。享年18。 隆元は元正の死を深く惜しみ、同年4月9日に河北俊興を使者として、元正の父・就吉と母・おせんにそれぞれ書状を送り、弔料千疋を贈った。その書状において隆元は、元正は幼少の頃から油断なく奉公しており、元服したので特にその分別を加えようと考えていたところを戦死してしまい、誠に惜しいことであると述べている[3]。また、同年4月27日に隆元は国司就信を使者として就吉のもとへ派遣し、佐波興連の三男で元正の従兄弟にあたる元行(万鶴丸)に元正の後を継がせ、元正の給地であった6貫目の地と浮米15石を与えた[3]。 脚注 ↑ 現在の広島県三次市廻神町。弘治3年(1557年)頃の三吉致高の隠居分1700貫の内に廻神300貫も含まれている(『毛利家文書』第410号、毛利元就自筆書状)。 ↑ 『毛利元就卿伝』p.348-350。 1 2 『毛利元就卿伝』p.350-351。 参考文献 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』(マツノ書店、1984年)p.348-351 田村哲夫校訂『新裁軍記』(マツノ書店、1993年)p.590-600 『萩藩閥閲録』巻94「松田治右衛門」 Related Articles