松田元行 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 弘治元年(1555年)死没 寛永20年3月12日(1643年4月30日)改名 佐波万鶴丸、才坊(幼名)→廻神与四郎→松田元行 凡例松田元行時代 戦国時代 - 江戸時代初期生誕 弘治元年(1555年)死没 寛永20年3月12日(1643年4月30日)改名 佐波万鶴丸、才坊(幼名)→廻神与四郎→松田元行別名 通称:与四郎→次郎左衛門尉、七郎兵衛官位 河内守主君 毛利輝元→秀就藩 長州藩氏族 三善姓佐波氏→橘姓松田氏流廻神氏→松田氏父母 父:佐波興連、母:松田氏行の娘兄弟 佐波隆秀、男子、元行、女(宍道隆慶正室)妻 正室:平佐元賢の娘継室:遠藤元盛の娘子 元継、隆宗、尚通テンプレートを表示 松田 元行(まつだ もとゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏家臣で長州藩士。知行は200石。旧名は廻神与四郎(めぐりかみ よしろう)。 弘治元年(1555年)、石見国の国人である佐波興連の三男として生まれる。 永禄5年(1562年)2月5日、福屋隆兼の次男の福屋次郎や福屋氏家老の神村下野守らが守る石見松山城攻めにおいて、毛利隆元に仕える従兄の廻神元正が18歳で戦死した[1][2]。隆元は元正の死を深く惜しみ、同年4月27日に国司就信を使者として元正の父・就吉のもとへ派遣し、元行(当時は万鶴丸)に元正の後を継がせ、元正の給地であった6貫目の地と浮米15石を与えた[2][3]。 文禄4年(1595年)3月12日、毛利輝元から「次郎左衛門尉」の官途名を与えられたが、慶長6年(1601年)9月1日にも「次郎左衛門尉」の官途名と「元」の偏諱を与えられている。この頃、輝元の意向により毛利秀就の傅役を任され、苗字を「廻神」から「松田」へと復した[注釈 1]。 慶長10年(1605年)12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、238番目に「松田次郎左衛門尉」と署名している[4]。 寛永4年(1627年)1月11日、秀就から「河内守」の受領名を与えられ、寛永12年(1635年)1月13日に嫡男の元継へ家督と200石の知行[5]を譲った。 寛永20年(1643年)3月12日に89歳で死去。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ↑ 苗字を「廻神」から「松田」に復した正確な時期は不明だが、官途名を与えられた際の書状における宛名が、文禄4年(1595年)の時は「廻神与四郎」、慶長6年(1601年)の時は「松田与四郎」となっているため、その間の事であることが窺える。 出典 ↑ 毛利元就卿伝 1984, pp. 349–350. 1 2 新裁軍記 1993, pp. 589–600. ↑ 毛利元就卿伝 1984, pp. 350–351. ↑ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。 ↑ 長門国美祢郡岩永村の内の100石と長門国豊田郡岩神村の内の100石、合計200石。 参考文献 東京帝国大学文学部史料編纂所 編『大日本古文書 家わけ第8-4 毛利家文書之四』東京帝国大学、1924年8月。 国立国会図書館デジタルコレクション 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。 国立国会図書館デジタルコレクション 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修、野村晋域著『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。全国書誌番号:21490091。 田村哲夫校訂『毛利元就軍記考証 新裁軍記』マツノ書店、1993年4月。全国書誌番号:93063892。 国立国会図書館デジタルコレクション 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻94「松田治右衛門」 Related Articles