弘法山古墳

長野県松本市にある古墳 From Wikipedia, the free encyclopedia

弘法山古墳(こうぼうやまこふん)は、長野県松本市並柳(なみやなぎ)にある古墳。形状は前方後方墳。中山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定され、出土品は長野県宝に指定されている。

所属 中山古墳群
所在地 長野県松本市並柳2丁目1000番地ほか(弘法山古墳公園内)
位置 北緯36度12分47.35秒 東経137度58分58.00秒
概要 弘法山古墳, 所属 ...
弘法山古墳

後方部から前方部を望む(後背に松本盆地
所属 中山古墳群
所在地 長野県松本市並柳2丁目1000番地ほか(弘法山古墳公園内)
位置 北緯36度12分47.35秒 東経137度58分58.00秒
形状 前方後方墳
規模 墳丘長61.5m
高さ6.2m以上(後方部)
埋葬施設 竪穴式石室状礫槨
出土品 銅鏡・玉類・武器・工具・土師器
築造時期 3世紀前半-中葉
史跡 国の史跡「弘法山古墳」
有形文化財 出土品(長野県宝)
地図
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古墳の位置

概要

長野県中部、松本盆地東縁の中山丘陵の北端頂部(俗称「弘法山」、標高652メートル・標高差約60メートル)上において、松本盆地を一望する位置に築造された古墳である[1]。中山丘陵上では古墳時代を通して中山古墳群が築造されており、特に中山36号墳(仁能田山古墳、非現存)は弘法山古墳に続く前期古墳とされる。1974年昭和49年)・2020-2023年度(令和2-5年度)に発掘調査が実施されている。

墳形は前方後方形で、前方部を北西方向に向ける。墳丘は地山削り出しのうえで盛土によって構築されており、後方部では特に厚く4メートル近く盛る[2]。墳丘外表ではくびれ部付近で山石(角石)・川原石(丸石)による葺石が認められるが、埴輪は認められていない[2]。埋葬施設は後方部中央における竪穴式石室状礫槨である。調査では、礫槨上から多量の土師器(底部穿孔壺・高坏・手焙形土器など)が、礫槨内から銅鏡・玉類・武器・工具が出土している。

築造時期は、古墳時代初頭の3世紀前半-中葉頃と推定される(近年の調査以前は3世紀末-4世紀初頭頃とされた)[3]。長野県内では4世紀以降に善光寺平において森将軍塚古墳川柳将軍塚古墳などの畿内的な大型前方後円墳の築造が知られるが、それに先行する在地的な前方後方墳として、松本盆地におけるクニの成立および長野県における古墳文化の始まりを知るうえで重要視される[2][4]

古墳域は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定され、出土品は1993年平成5年)に長野県宝に指定されている。現在では史跡整備のうえで「弘法山古墳公園」として公開されている。また弘法山全体には桜が植えられ、春には桜の名所として知られる。

遺跡歴

  • 第二次世界大戦末期、墳頂部に高射機関銃の設置[4]
  • 1973年昭和48年)刊行の古墳分布図に「弘法山古墳」として記載(当時はすでに破壊されたと認識)[4]
  • 1974年(昭和49年)
    • 松商学園が弘法山を買収[4]
    • 学校用地造成に伴う発掘調査:1次。前方後方墳と判明、副葬品出土(斎藤忠ら・松本市教育委員会、1978年に報告・1993年に出土品再整理報告)[4]
  • 1976年(昭和51年)2月20日、国の史跡に指定。
  • 1981-1982年度(昭和56-57年度)、史跡整備事業。
  • 1984-1986年度(昭和59-61年度)、桜約5000本の植樹。
  • 1993年平成5年)8月12日、出土品が長野県宝に指定。
  • 2020-2023年度(令和2-5年度)、再整備事業に伴う発掘調査:2-4次(松本市教育委員会、2026年に報告)[3]

墳丘

弘法山遠景
「桜の山」の頂部に弘法山古墳が所在する。

墳丘の規模は次の通り[2]

  • 墳丘長:約61.5メートル - 近年の調査以前は66メートルとされた。
  • 後方部
    • 長さ:34.1メートル
    • 幅:36メートル
    • 高さ:6.2メートル以上
  • くびれ部
    • 幅:13.7メートル
  • 前方部
    • 長さ:27.4メートル
    • 幅:24.9メートル
    • 高さ:1.9メートル以上

墳形はホケノ山古墳(奈良県)との類似が指摘される[3]

埋葬施設

後方部墳頂
中央に竪穴式石室状礫槨の遺構標示。

埋葬施設としては、後方部中央において竪穴式石室状の礫槨が構築されている[2]。礫槨の主軸は墳丘主軸とほぼ直交する北東-南西方向とし、内法の規模としては長さ5.5メートル・幅1.32メートル・深さ0.93メートルを測り、周囲に厚い控え積みを施す[2][4]。礫槨上からは底部穿孔壺・高坏・手焙形土器などの多量の土師器が出土している[2]

礫槨の石材は川原石(松本盆地の複数の河川から運搬か)[2]。内部は黒土で満たされて硬くしまり、棺・天井石は確認されていない[2](平底木棺が存在したか[4])。副葬品の配置から北東頭位とみられ、腰部で水銀朱が認められたほか、副葬品として銅鏡・玉類・武器・工具が出土している[2]

なお、後方部上では戦時中に高射機関銃が設置されており、調査では銃座3基が確認されているが、いずれも埋葬施設を外れている[4]

出土品

手焙形土器
松本市立考古博物館展示。

調査で出土した遺物は次の通り[2]

礫槨内出土
  • 銅鏡
    • 上方作系浮彫式獣帯鏡 1 - 直径11.65センチメートル。「上方作竟」以下の銘文を有する。
  • 装身具
    • ガラス小玉 738
  • 武器
    • 鉄剣(または鉄槍) 3
    • 銅鏃 1
    • 鉄鏃 24
  • 工具
    • 鉄斧 1
    • 鉇 1
礫槨上出土
  • 土師器 - 破片約1,000点。確認個体は、壺(底部穿孔含む)8、高坏10、器台2、坩2、甕2、手焙形土器1の25点[5]

出土品のうち、鏡は三角縁神獣鏡に先行する型式であり、景初2年(238年)に公孫氏に滅ぼされる前に、倭の首長が帯方郡へ入貢し入手したと推測される[5]

また、土師器には東海地方とのつながりが認められる。西1.2キロメートルの出川西遺跡でも同様の土器が出土しており、弘法山古墳の被葬者の拠点集落の1つの可能性がある[2]

文化財

国の史跡

  • 弘法山古墳 - 1976年(昭和51年)2月20日指定[6]

長野県指定文化財

  • 県宝(有形文化財)
    • 弘法山古墳出土品(考古資料) - 松本市立考古博物館保管。1993年(平成5年)8月12日指定。
      • 半三角縁四獣文鏡 1
      • 鉄斧 1
      • 鉄剣 1
      • 銅鏃 1
      • 鉄鏃 24
      • 鉇 1
      • ガラス製小玉 738点
      • 土師器 22個体
      • その他

現地情報

所在地
  • 長野県松本市並柳2丁目1000番地ほか(弘法山古墳公園内、旧松本市大字出川字丸山1000番地ほか(平成6年の住居表示事業で変更)[7]
交通アクセス
関連施設

脚注

参考文献

関連文献

関連項目

外部リンク

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