弘法山古墳
長野県松本市にある古墳
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概要
長野県中部、松本盆地東縁の中山丘陵の北端頂部(俗称「弘法山」、標高652メートル・標高差約60メートル)上において、松本盆地を一望する位置に築造された古墳である[1]。中山丘陵上では古墳時代を通して中山古墳群が築造されており、特に中山36号墳(仁能田山古墳、非現存)は弘法山古墳に続く前期古墳とされる。1974年(昭和49年)・2020-2023年度(令和2-5年度)に発掘調査が実施されている。
墳形は前方後方形で、前方部を北西方向に向ける。墳丘は地山削り出しのうえで盛土によって構築されており、後方部では特に厚く4メートル近く盛る[2]。墳丘外表ではくびれ部付近で山石(角石)・川原石(丸石)による葺石が認められるが、埴輪は認められていない[2]。埋葬施設は後方部中央における竪穴式石室状礫槨である。調査では、礫槨上から多量の土師器(底部穿孔壺・高坏・手焙形土器など)が、礫槨内から銅鏡・玉類・武器・工具が出土している。
築造時期は、古墳時代初頭の3世紀前半-中葉頃と推定される(近年の調査以前は3世紀末-4世紀初頭頃とされた)[3]。長野県内では4世紀以降に善光寺平において森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳などの畿内的な大型前方後円墳の築造が知られるが、それに先行する在地的な前方後方墳として、松本盆地におけるクニの成立および長野県における古墳文化の始まりを知るうえで重要視される[2][4]。
古墳域は1976年(昭和51年)に国の史跡に指定され、出土品は1993年(平成5年)に長野県宝に指定されている。現在では史跡整備のうえで「弘法山古墳公園」として公開されている。また弘法山全体には桜が植えられ、春には桜の名所として知られる。
遺跡歴
墳丘
埋葬施設

埋葬施設としては、後方部中央において竪穴式石室状の礫槨が構築されている[2]。礫槨の主軸は墳丘主軸とほぼ直交する北東-南西方向とし、内法の規模としては長さ5.5メートル・幅1.32メートル・深さ0.93メートルを測り、周囲に厚い控え積みを施す[2][4]。礫槨上からは底部穿孔壺・高坏・手焙形土器などの多量の土師器が出土している[2]。
礫槨の石材は川原石(松本盆地の複数の河川から運搬か)[2]。内部は黒土で満たされて硬くしまり、棺・天井石は確認されていない[2](平底木棺が存在したか[4])。副葬品の配置から北東頭位とみられ、腰部で水銀朱が認められたほか、副葬品として銅鏡・玉類・武器・工具が出土している[2]。
なお、後方部上では戦時中に高射機関銃が設置されており、調査では銃座3基が確認されているが、いずれも埋葬施設を外れている[4]。
出土品
調査で出土した遺物は次の通り[2]。
- 礫槨内出土
- 銅鏡
- 上方作系浮彫式獣帯鏡 1 - 直径11.65センチメートル。「上方作竟」以下の銘文を有する。
- 装身具
- ガラス小玉 738
- 武器
- 鉄剣(または鉄槍) 3
- 銅鏃 1
- 鉄鏃 24
- 工具
- 鉄斧 1
- 鉇 1
- 銅鏡
- 礫槨上出土
- 土師器 - 破片約1,000点。確認個体は、壺(底部穿孔含む)8、高坏10、器台2、坩2、甕2、手焙形土器1の25点[5]。
出土品のうち、鏡は三角縁神獣鏡に先行する型式であり、景初2年(238年)に公孫氏が魏に滅ぼされる前に、倭の首長が帯方郡へ入貢し入手したと推測される[5]。
また、土師器には東海地方とのつながりが認められる。西1.2キロメートルの出川西遺跡でも同様の土器が出土しており、弘法山古墳の被葬者の拠点集落の1つの可能性がある[2]。
- 鉄製品
松本市立考古博物館展示。 - 土師器
松本市立考古博物館展示。
