張瑞図
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万暦35年(1607年、38歳)、進士の試験に及第して翰林院に入り、熹宗時期では天啓6年(1626年、57歳)のときに礼部尚書となって内閣に入った。ただし、この出世は宦官の魏忠賢の愛顧を受けていたためとされている。魏忠賢は宮廷において権勢をほしいままにして政治を乱し、明を滅亡に導く因をなした人物である。
毅宗が即位して、忠賢が処罰されて自殺すると、張瑞図もその一党として弾劾された。毅宗は瑞図を庇護したが、彼は辞職を希望し、崇禎元年(1628年)に太保の官位を贈られて帰郷した。翌崇禎2年(1629年)の忠賢一味の罪状調査のとき、かつて瑞図が忠賢の生祠の碑文を書いたことが発覚して毅宗の怒りをかい、太保の称号も奪われた。その後、平民に降ろされてからは郷里で禅に心を寄せ、詩文におもいを託して書画を書くという悠々自適な生活を送った。そして、南明政権になって、文隠(ぶんいん)と諡された[6][4][3][7]。
書
書の師法とするところはほとんど見られず、その出自の詳細は不明であるが、「はじめは唐の孫過庭を学んだ」とする清の梁巘の説があり、また、その後、蘇軾の『草書酔翁亭記』を学んだとも言われている。作品の多くは行草で、行草が最も優れているといわれるが、董其昌は詩情豊かな率意の筆致の小楷を第一に推している。また、豪快な大字があるなど作品は多彩である。リズミカルな古法にとらわれぬ独創的なスタイルは、董其昌や王鐸のような鍾繇や王羲之を習いこんだ書家とは一線を画しているが、明末の新しい風気を代表する作家の一人にあげられている。
初め古跡について学書中、その難を嘆き溜め息をつくと、傍らにいた妻から、「瑞図はなぜ瑞図の字を書かないか」と指摘され、翻然と覚り、ついにこの妙域に達したという[8][6][3][9][5][10][7]。
作品
作品は行草の条幅が多い。結構は字の懐を狭め、行間を広くとっている。強烈な筆力で一気に紙を抉るように、また、横画を反らせて、転折では反転させてたたみ掛けるように運筆し、その勢いに乗って連綿する。
その作品には、『五言律詩軸』・『杜甫飲中八仙歌巻』・『李白詩巻』などがある[10][3][6]。