恒松制治
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交友関係
島根県大田市生まれ[2]。武蔵高等学校、京都帝国大学経済学部卒業後[2]、農林省(現・農林水産省)入省。
1958年(昭和33年)学習院大学経済学部教授に転じ[2]、1975年郷里の知事に担ぎ出され、日本社会党の推薦で初当選。県議の8割を占める保守系県議の支援も得て、3期務めた[3]。任期中は、賛否が割れていた宍道湖・中海淡水化事業を巡って苦心したほか、1981年(昭和56年)には韓国・慶尚北道を訪れ、姉妹提携の筋道をつけた[4]。予算編成時には、担当の部課長は知事の質問に備えていつも徹夜を強いられたという、また中堅を選抜し、庁内にビジョン研究会を編成。「エリート養成」と労組に言い切った[3]。
引退後は東京都で暮らし[4]、獨協大学学長などを務め[2][5]、地方分権や道州制について積極的に発言した[4]。
学生時代、岸本誠二郎のゼミで一緒になった若林誠郎(京都近鉄百貨店社長)は、同い年で一緒に価値論を勉強した仲だった。大学教員になった恒松に対して、若林は価値論と関係なく百貨店「丸物」に入ったものの、若林は出雲地方に知人が多く、知事時代の恒松の活躍を聞くのを楽しみにしていた[7]。