成願寺 (東近江市)
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神仏習合
当寺は、延暦18年(799年)に赤神山にある阿賀神社の神徳に感じ入った最澄によって薬師如来を本尊とし、阿賀神社の神宮寺として建立されたことに始まるという[1]。その際、修験道の大成者である役行者の兄弟子であり、赤神山に住んでいた天狗の太郎坊[1]が(弟の次郎坊は京都の愛宕山に住む)山上に現れて、この地に一宇を建立するように最澄に告げ、山の守護神としてその建立を手助けしたという。
阿賀神社と天台宗の当寺はやがて神仏習合し、竹中坊、上坊、松本坊、行満坊、石垣坊、大泉坊などの社殿・僧坊が50あまり建立されると[1]、薬師如来の縁日である八日に市を開いていた八日市の町も発展していき、隆盛を極めるようになる。当寺は阿賀神社境内の最高所に奥之院を作り、そこに太郎坊大権現像を祀るようになると、当寺は阿賀神社をその管理下に置き、名称も両者を合わせて太郎坊宮と呼ぶようになり修験道の霊場になっていった[1]。
近江源氏の佐々木成頼が麓の小脇に小脇館を構え、やがて赤神山の横にある小脇山に小脇山城を築城すると、八日市の賑わいもあって当地は近江国の中心地となっていった。
佐々木氏の嫡流である六角氏の当主近江守護六角頼綱が本拠地を金田館(金剛寺城)に移し、さらに応仁の乱の頃に六角高頼が繖山の観音寺城に居城を移しても、当地の重要性は変わらなかった。しかし、永禄11年(1568年)に足利義昭を担いで上洛を敢行する織田信長とそれを迎え撃つ六角義賢との合戦に巻き込まれ、社殿のほか50余りの坊舎は殆んど焼失した[2]。
神仏分離
阿賀神社はほどなくして再建されたが、成願寺は戦国時代には蒲生氏、江戸時代には江戸幕府の帰依を得、寺領などを寄進され、遅ればせながら寛永17年(1640年)に至ってようやく宝寿院行承とその弟子祐盛が本堂と鐘楼を建立して再興された。僧坊も行満坊や石垣坊などが復興されたが、かつてほどの勢いはなかった。
延宝年間(1673年 - 1681年)、当寺と村人が赤神山一帯の入会地をめぐって争い、当寺が村人を幕府に訴えるという事件が起きた。以後70年あまりの間、両者はいがみ合い続けたがついに当寺は敗訴した。その結果、阿賀神社の神主は村人・氏子が一年ごとに新しく任命され派遣するという当番神主制が採用され、阿賀神社は当寺の管理下から離れることとなった。
宝暦3年(1753年)に当寺は奥之院にあった太郎坊大権現像の他にいくつかの仏教関係の宝物を阿賀神社から当寺の本堂に移すと、当寺を太郎坊大権現と称するようになった。阿賀神社は当寺の奥之院を新たに神社の本殿に改め、太郎坊宮と称するようになった。ここに、いまだ神仏習合の形態ではあるが阿賀神社と当寺は分かれる事となった。
1868年(明治元年)に神仏分離によって阿賀神社と当寺は完全に分離し、1872年(明治5年)には修験道が廃止され、行満坊と石垣坊を除いて僧坊が廃寺となった。
境内
文化財
所在地
- 滋賀県東近江市小脇町828-1