阿賀神社

滋賀県東近江市小脇町にある神社 From Wikipedia, the free encyclopedia

阿賀神社(あがじんじゃ)は、滋賀県東近江市小脇町にある神社太郎坊宮(たろうぼうぐう)や太郎坊阿賀神社の通称で知られている。旧社格村社で、現在は神社本庁別表神社

所在地 滋賀県東近江市小脇町2247
位置 北緯35度07分04秒 東経136度10分54秒
概要 阿賀神社, 所在地 ...
阿賀神社

鳥居
所在地 滋賀県東近江市小脇町2247
位置 北緯35度07分04秒 東経136度10分54秒
主祭神 正哉吾勝勝速日天忍穂耳命
社格村社別表神社
創建 欽明天皇の時代
本殿の様式 一間社入母屋造
例祭 3月24日
地図
阿賀神社の位置(滋賀県内)
阿賀神社
阿賀神社
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赤神山中腹に本殿、参集殿
本殿、展望台、授与所

祭神

歴史

神仏習合

そもそもは、夫婦岩を始めとする巨岩を磐座として欽明天皇の時代には祭祀が行われ、崇拝されていたようである[1]推古天皇の時代の西暦600年頃、聖徳太子により箕作山摂津国に建立する四天王寺で使用する瓦を焼くための瓦屋寺が創建された。それとほぼ同時期に箕作山の一峯である赤神山正哉吾勝勝速日天忍穂耳命を祀る社が建立され、赤神山の名前から阿賀神社と称されたという。また、聖徳太子は国家の安泰と万人の幸福を祈願したという[1]。当地の地名は小脇というが、それは天照大御神がいつも小脇に抱えて「此の脇の子」といってかわいがっていた正哉吾勝勝速日天忍穂耳命が降り立ったところであるからだという[2]。神体山信仰、盤境(いわさか)信仰の発祥の地であるといわれる[3]

延暦18年(799年)に当社の神徳に感じ入った最澄によって薬師如来本尊とする成願寺が当社の神宮寺として麓に創建された[1]。その際、修験道の大成者である役行者の兄弟子であり、赤神山に住んでいた天狗太郎坊[1]が(弟の次郎坊京都愛宕山に住む)山上に現れて、この地に一宇を建立するように最澄に告げ、山の守護神としてその建立を手助けしたという。

当社と天台宗の成願寺はやがて神仏習合し、竹中坊、上坊、松本坊、行満坊、石垣坊、大泉坊などの社殿・僧坊が50あまり建立されると[1]、薬師如来の縁日である八日に市を開いていた八日市の町も発展していき、隆盛を極めるようになる。成願寺は当社境内の最高所に奥之院を作り、そこに太郎坊大権現像を祀るようになると、当社は成願寺の管理下に置かれて名称も両者を合わせて太郎坊宮と呼ばれるようになり、修験道の霊場になっていった[1]

源義経は当社に参詣して源氏興隆を祈念したと伝わり、その折に座ったとされる「腰掛岩」が存在している[1]

近江源氏佐々木成頼が麓の小脇に小脇館(近江小脇館)を構え、やがて赤神山の横にある小脇山に小脇山城を築城すると、八日市の賑わいもあって当地は近江国の中心地となっていった。

源頼朝が上洛した時、佐々木定綱とともに当社に幣帛を献じている[3]

佐々木氏の嫡流である六角氏の当主・近江守護六角頼綱が本拠地を金田館(金剛寺城)に移し、さらに応仁の乱の頃に六角高頼繖山観音寺城に居城を移しても、当地の重要性は変わらなかった。しかし、永禄11年(1568年)に足利義昭を担いで上洛を敢行する織田信長とそれを迎え撃つ六角義賢との合戦に巻き込まれ、社殿のほか50余りの坊舎は殆んど焼失した[3]。その後、荒廃した太郎坊宮には後に信長を千種街道で狙撃する杉谷善住坊・三木大学とその一味が住んでいたという。

神仏分離

当社はほどなくして再建されたが、成願寺は遅れて江戸時代寛永17年(1640年)に宝寿院行承と弟子の祐盛が本堂と鐘楼を再建してようやく復興した。だが、僧坊の復興はかつてほどではなかった。しかし、延宝年間(1673年 - 1681年)になり、成願寺と村人が赤神山一帯の入会地をめぐって争い、成願寺が村人を幕府に訴える事件が起きた。以後70年あまりの間、両者はいがみ合い続けたがついに村人側が勝訴した。その結果、当社の神主は村人・氏子が1年ごとに新しく任命し派遣する当番神主制が採用され、ここに当社は成願寺の管理下から離れることとなった。宝暦3年(1753年)に成願寺は奥之院にあった太郎坊大権現像の他にいくつかの仏教関係の宝物を麓の成願寺本堂に移して太郎坊大権現と称すると、当社は成願寺の奥之院だった建物を新たに当社の本殿に改め、太郎坊宮と称するようになった。ここに、いまだ神仏習合の形態ではあるが当社と成願寺は分かれる事となった。

1868年明治元年)に神仏分離によって当社と成願寺は完全に分離し、1872年(明治5年)には修験道が廃止された。1876年(明治9年)には太郎坊宮という名称は規制を受け、正式名称を阿賀神社と改名し、村社に列せられている[3]。だがしばらくすると太郎坊宮という名称は通称として使われるようになった。

1909年(明治42年)に近隣10社のを相殿に祀った。また、同年には神饌幣帛料供進社に指定されている[3]

1961年昭和36年)に神社本庁別表神社に加列されている[3]

1962年昭和37年)に麓から成願寺境内を通って当社に至る石段の参道しかなかったところ、陸上自衛隊の手によって自動車で成願寺経由で当社にまで直接行ける太郎坊産業道路が作られた。後に道は瓦屋寺にまで伸ばされている。

2007年平成19年)に東近江市が選出した東近江八景に選ばれる。2013年(平成25年)には夫婦岩が東近江市の天然記念物に指定された。

付近の阿賀神社との関係

太郎坊宮で有名な当社の近くにも同名の「阿賀神社」が存在している。この神社は境内の巨石群を通して赤神山の神を巡拝したという説がある。太郎坊宮阿賀神社の見解としては、赤神山を神聖視し付近で祭りを行っていたものが後に神社に発展したのではないかとのことである[4]

境内

  • 本殿(国登録有形文化財) - 宝暦3年(1753年)再建。一間社入母屋造[5]。銅板葺で権現造向拝付、元は成願寺の奥之院。参拝所が接続している。前に懸造りの舞台がある。
  • 参拝所(国登録有形文化財) - 1924年大正13年)建立[5]
    • 幣殿
  • 舞台(国登録有形文化財) - 1880年明治13年)築。懸造で、高さ約13メートル。1948年昭和23年)改修され、床のみコンクリート製となった[5]
  • 授与所(国登録有形文化財) - 明治時代中期の建立[5]
  • 夫婦岩(東近江市指定天然記念物) - 近江の高天原とも呼ばれる。本殿の前にある数十メートルの高さの岩で、山側を男岩、谷側を女岩という。岩の間が参道になっており、幅約80センチメートルの参道が約12メートル続く。神の神通力によって開かれたと伝えられ、悪心のある者が間を通ると挟まれるとされる[2]。また、天狗が住んでいるともいわれる。
  • 腰掛岩 - 源義経鞍馬寺から陸奥国平泉藤原秀衡のもとに赴く際に当地に立ち寄り、この岩に腰を下ろしたといわれる。源氏の再興と戦勝を祈願したという[1]
  • 拝殿(国登録有形文化財) - 江戸時代末期の再建[5]
  • 神楽殿(国登録有形文化財) - 明治時代中期の再建[5]
  • 永安殿(国登録有形文化財) - 1907年(明治40年)建立。神楽演奏所。旧社務所[5]
  • 長楽殿(国登録有形文化財) - 1930年(昭和5年)建立。講堂[5]
  • 祭器庫(国登録有形文化財) - 1938年(昭和13年)建立。土蔵[5]
  • 参集殿 - 研修道場。1973年(昭和48年)に作られた建物。地下は社務所、1階は大広間・ロビー・売店、2階は神殿(春興殿)・会議室等、3階は客室となっている[2]
  • 奥ツ磐座 - 山上にある[2]
  • 七福神石像
  • 天狗像
  • 役行者
  • 赤神山不動明王
  • 不動明王拝所(国登録有形文化財) - 1930年(昭和5年)建立[5]
  • 絵馬殿(国登録有形文化財) - 1925年大正14年)再建。岸熊吉の設計監修[5]
  • 祈祷殿 - 本殿の御分霊を祀る。
  • 中門(国登録有形文化財) - 1934年(昭和9年)再建[5]
  • 辺ツ磐座 - 山麓にある[2]

摂末社

  • 火防の稲荷 - 二見神社・十二社神社。
  • 赤神山稲荷社
  • 赤神山愛宕社
  • 龍神社(手水舎、国登録有形文化財) - 祭神:龍神1911年(明治44年)再建[5]
  • 地主社
  • 一願成就社 - 願かけ殿。1983年(昭和58年)建立[3]
  • 夢神社
  • 紫微社

文化財

国登録有形文化財

  • 本殿
  • 参拝所
  • 舞台
  • 授与所
  • 拝殿
  • 神楽殿
  • 永安殿
  • 長楽殿
  • 祭器庫
  • 手水舎
  • 銅鳥居 - 1957年(昭和32年)建立。板金加工が施された珍しい鳥居[5]
  • 絵馬殿
  • 不動明王拝所
  • 中門
  • 一の鳥居 - 1894年(明治27年)再建[5]

東近江市指定天然記念物

  • 太郎坊阿賀神社の夫婦岩

祭事

  • 例大祭 - 3月24日
  • 千日大祭 - 7月24日
  • お火焚大祭 - 毎年12月第1日曜日[6]

所在地

  • 滋賀県東近江市小脇町2247

アクセス

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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