手越河原の戦い
From Wikipedia, the free encyclopedia
中先代の乱が起こり太平記ではその際、直義が独断で東光寺に閉じ込められていた後醍醐の皇子の護良親王を家臣の淵辺義博に殺害させた。その後、後醍醐に足利尊氏が時行討伐の許可と同時に武家政権の設立に必要となる総追捕使と征夷大将軍の役職を要請したが、後醍醐は要請を拒否した。後醍醐の勅状を得ないまま尊氏は東方へ征伐に行ってしまったため後醍醐は尊氏に追って征東将軍の号を与えた。この状況にいたり尊氏は鎌倉に本拠を置いて武家政権の既成事実化をはじめた。これを恐れた後醍醐は尊氏追討令を発し新田義貞を鎌倉へ向かわせた。
そして、建武2年11月25日(1336年1月8日)から27日にわたり三河国矢作川で新田軍と足利直義、高師泰の間で矢作川の戦いが発生した。直義勢は20万程の東国の武将を率いてきたが、矢作川の戦いでは高勢が敗走したため直義勢は遠江国に退却した。